ブログを書けなかった理由
ここ二ヶ月ほどブログをかけなかった。
忙しいというより、ノイズが多いと書けなくなる癖があるらしい。
ここ二ヶ月の間に大統領選があり、アゼルバイジャンとアルメニアとの間で戦争があるなど私にとって刺さるいろんなニュースがあった。
当然そういった情報はチェックする。
そして付随してツイッターのコメントや見解もみてしまう。
見た瞬間反応は「そうなんだ」「違くない」2パターンしかなくなってしまう。
コメントに対しての反応となり、ブログに書こうという積極性が失われてしまう。
自分の意見を成熟させる時間もスマホによって奪われ、自体が進展するたびに量産されるコメントに飲み込まれてしまう。
書きたくても書けないという悶々とした日々を送ることになった。
私は意見が出てくるまで時間のかかる人間だ。
瞬発力がないためツイッターに書き込みをすることもできない。
つぶやいている人を選別することで意見だけを表明したい人を排除するようにして利用はしている。
しかしながら情報を咀嚼し熟成する時間が必要なタイプにとってネットは難しい場所となっている。
膨大な情報はリアルタイムで流れ、コメントというノイズも充満している中で咀嚼や熟成という時間が入り込む隙間はない。
また最近はアプリ等様々な媒体が無料であることが当たり前となった。
一方で無料は広告という新たなノイズを生み出すことになった。
ツイッターやスマートニュースは無料が前提だが、私は課金したいタイプだ。
なぜならスティーブ・ジョブズが一日の人間ができる決断の回数をへらすために同じ服を着たように、私も一日の思考回数を減らしたいと思っているからだ。
広告という余計な思考をするノイズを除去したいのでお金を払いたいと思ってしまう。
こういった考え方はリアリズムにも共通しており、物事はシンプルで簡潔なのが望ましいとされる。
人は難しい理屈より明快な名言を好む。
複雑さは物事を妨げるものであり、人はいくつもの複雑な事象を考えられる器用さを持ち合わせていない。
無料で手に入るものには広告など生きていく上で複雑さを要求してくる。
だからこそできる限り関わらないように有料にできるものは有料で使用してシンプルかつ効率的な情報収集することが望ましいと常々思っている。
思っていても実行が難しく、ネットのおかげでブログに気軽に書くことができるという行為を無料でさせてもらっている。
何年経ってもネットとの付き合い方は難しく、それ以上にブログをコンスタントに書き続けることは難しい。
健康診断の胃の検査について思うこと
毎年健康診断を受けるが憂鬱になる。
他の人は結果に憂鬱かもしれないが、私の場合は胃カメラやバリウム検査で憂鬱になる。
私の健康診断を受ける病院は胃カメラとバリウム検査を選択できるが、胃カメラのときは全身麻酔ができない病院である。
このため胃カメラにしたときは口から胃カメラを挿入され、おえづき、悶え苦しみながら早く終わるのを待つことになる。
またバリウム検査にすると回転台の上でゲップに耐えながら回ることになる。
そして下剤を飲まされすべて出すことになる。
どちらをとっても身体に多大な負荷がかかっている。
人間の体は外部からの侵入に対して無意識に抵抗するようになっている。
体に有害なものを取り込まないようにする防衛反応であり、正常な反応である。
しかし胃カメラの場合はその無意識に対して意識で対抗してねじ伏せる努力が必要となる。
麻酔を使った場合は回転率も悪くなるため一日に処理できる人数が少なくなる。
バリウム検査の場合は体内にバリウムが残る可能性があることと、まれに肺に入ってしまう事故もある危険性だ。
バリウムが体内に滞留すると排泄物も滞留することになり、最悪命の危険にもさらされる。
これだけ患者に負担をかける医療行為が未だに幅広く実践されているのは不思議でしかない。
世の中にはカプセル内視鏡という錠剤型の小さいカメラを飲み込むタイプもある。
数秒に1枚写真を撮って体につけた受信機で映像を保存していき、自然に排泄される。
2007年には保険適用となり、自己負担3万円で受けれる。
なぜこういった機器を積極的に使用しないのか不思議でしかない。
健康診断は会社に努めている場合、年一回受診が義務付けられている。
2019年の日本の雇用者数は5,660万人、そのうち非正規が2,165万人【総務省統計局調べ・2019年】 | Web担当者Forum
正規雇用だけでも3494万人おり、すべての人が胃の検査を受診しなかったとしても膨大な受診者となる。
仮に500万人の検診者がカプセル内視鏡を利用した場合、製造コストの安価や受信機の改良等によって価格は下落するだろう。
病院側にとってもバリウムを使用しないことで回転台などの設備をなくしたり、利用頻度を下げることもできる。
また健康診断を受ける人数を増やすことも可能となる。
500万人の体内データはAI学習によって正常なものと異常なものに分けることで検査結果も素早く出せる。
不都合があれば最終チェックだけ人間の目を使えばいい。
医療の現場は疲弊しており、国家予算に占める医療費割合は年々増加している。
増税の根拠とまでされており国民に多大な負担を強いているお荷物業界となっている。
新型コロナウィルスによって診療所等の売上が減少し赤字となっているところが多い。
これは不必要な来院者が多かったことによる。
薬をもらうだけで長時間待たせたり、老人の憩いの場を提供している。
そして多額の納税している病気になった若者も長時間待たせている。
病院を儲けさせるだけの非効率な体質が今回の新型コロナウィルスによって露呈した。
高度な医療の提供と医療従事者の減少及びコストカットはオンラインに情報をのっけることで達成できる。
各病院でそれぞれカルテを作成するのではなく、マイナンバーをもとに一人の人間の病歴も含めた医療データを閲覧できるようなシステム構築できれば、各病院で管理していたサーバー等の管理費用の削減にもなる。
医療ロボット等の導入の契機ともなるだろう。
こういったことができないのは既得権益を守る集団と過保護な法律による。
よりよい医療の提供とは「医療従事者にとって」のよりよい医療の提供となっているような気がする。
戦争責任について思うこと
毎年のように当時の政府及び天皇の戦争責任について問う議論が出てきている。
しかし菊タブーや左翼の極端な論説が幅をきかせていたことから議論は低レベルなものに終止することが多い。
低レベルな議論は極東軍事裁判における各種判決内容と、戦争指導していた集団に対して敗戦の責任を問うことがごちゃまぜにしていることにある。
極東軍事裁判についてはすでに多くの論説が展開されている。
曰く法律の基礎である法の不遡及を犯してまで戦勝国が敗戦国を裁く私刑がまかり通った。
ニュルンベルク裁判と合わせてこの裁判以降、戦争を犯罪として取り扱うように国際社会は変容した。
勿論サンフランシスコ平和条約によって日本は裁判の判決を受けいれている経緯があるこては知っている。
だが判決を受け入れるが裁判のやり方自体に問題があれば無効となる。
例えばイラクで捕縛されたサダム・フセインは裁判で死刑となったが、イラク戦争を始めたきっかけである大量破壊兵器を見つけ出せず、多くのイラク人を殺害し国家を解体した罪をアメリカがとることはない。
戦争の違法化と裁判における勝者の正当化の根拠とすることで正義は歪められる現状が続いている。
敗戦=犯罪者として処刑される現象はWW1後の共和制ドイツへの多額の賠償金を彷彿とさせる。
WW2になりドイツは降伏したフランスに調印させるため、わざわざWW1のときにドイツが調印した列車を持ち込んで調印させた。
敗戦=国家という共同体に汚点を残すようなやり方は将来的にしっぺ返しがくるようになっている。
仮にWW2で日本が勝利しセオドア・ルーズベルトを裁判にかけたとする。
罪状は日本にハワイを攻撃させ、わざと損害が被るようにしたことで戦争責任を問えば納得する米国民はいないだろう。
また原子爆弾を広島、長崎に投下したり、日本各地を戦略爆撃で灰燼に帰したことは人道に対する罪に相当する。
しかし人道に対する罪に納得する米国民は少ないだろう。
原子爆弾投下は日本本土上陸によって失われる50万人の米軍人の人命を救った行為とされているからだ。
だが軍人を救うために多数の民間人を原子爆弾で殺害することを正当化することは正義の観点からみても不適当であることは論をまたない。
結局の所裁判における責任は敗者が敗者らしく勝者の正義の鉄槌を受けることを意味しているに過ぎない。
戦争の違法化は勝者の正当性を担保する以上の意味をもっていない。
こうなると極東軍事裁判での判決は議論する意味はない。
だが論説がごちゃまぜになるのはテキトウにつけられたABCという評価と戦争指導していた人に対する敗戦責任がリンクしていることにもある。
指導層はA評価がつけられるため処刑台送りになる。
処刑される程の酷い敗戦にした罪によって処刑されたと捉えることもできる。
極東軍事裁判はある意味で日本国民の指導層に対する敗戦の恨みを晴らす場を提供したとも言える。
だが恨みを晴らすことは極東軍事裁判でなくともできることだ。
裁判を正当化するのではなく指導層に対する敗戦の責任を問う一点に絞れば議論は単純化できる。
敗戦の原因は長期的な見通しを考慮せず、米国の国力を適切に判断できなかったことにある。
当たれば必ず負ける相手と戦い、予想通り負けた。
米国が日本に戦争をふっかけたかったという論説もある。
だが負けることが明白な状態で戦争にしないようにするのが外交である。
満州国の共同開発やシナ大陸で日本が制圧した地域に米国資本も参入させることで共同開発にしていくことなどできた。
譲歩ができなかった理由は権益を独り占めできると錯覚した見通しの甘さにある。
隣国との力関係を考慮せず自国の権利ばかりを主張するやり方は外交ではなく脅迫である。
現在の中国がウイグルやチベットを征服し、南シナ海の南沙諸島を不当占拠し、尖閣列島に対して不法侵入繰り返すことに日本が抗議していることと同じことをしていた。
日清・日露のように輝かしい勝利によって大国米国と和睦を結ぶという理想によって始められた戦争は米国世論が参戦に統一されたことで瓦解した。
その後国力差によって防衛一方となり押しつぶされた。
この責任を問うことが意味のある議論となる。
軍部は戦争に対して共同歩調をとることなく常に対立していた。
陸軍はシナ大陸とソ連に注力していたし、海軍は米国の戦争に注力していた。
互いに連携をとる意図はほとんどなかった。
また政策レベルで両者の連携を取れる立場にいた政府は統帥権干犯を恐れて介入できなくなっていた。
政府=軍部といっていい体制となったため外交も硬直したものになり、米国側の立場を理解できる人物に欠いた。
交渉は自分たちの望みをいかに多く通すかに変わっていた。
譲歩できない線が多かったため交渉は決裂したことで責任は軍部にあるといっていい。
同時に政府や国会といった文官も軍部の台頭を容認した責任がある。
現役武官制度の阻止失敗や外交の下に軍部がいることを示すことができなかった。
なにより統帥権干犯に極度に恐れていたことが大きい。
政府=軍部となった以上、この状況を収めることができるのは天皇のみとなった。
だが敗戦後天皇の法廷での裁判を受けさせないよう生贄を複数人出したことを考慮すると本末転倒である。
結論いうと天皇に軍部を抑える能力はなく、天皇のすげ替えも画策されていた。
天皇はイギリス式の君臨すれども統治せずを実践しており、職責を最大限こなしていた。
内閣が倒閣するたびに和平をつかもうと人選するが、その人達に能力が欠如していた。
そして天皇自身の統帥権を行使する段階となったときには軍部によって周囲を固められていた。
この状況は原子爆弾投下後まで継続され、閣議で継戦派と和平派が半数に割れたことで初めて統帥権を行使できる状態となったのだ。
戦後は日本国の象徴として和平への祈りと外交に尽力された。
天皇は責任をすでに果たしていると考える。
戦前の未熟な民主主義が崩壊していく中で自らの職責に最後まで忠実だったのは他ならぬ天皇陛下であったと思う。
1国民としては段々と理性のある議論ができる環境ができることをただ望む。
日本の戦争観について思うこと
毎年恒例となっている半月だけの戦争は良くない週間が開催された。
例年とは少し違いがあるとすれば1億総懺悔ばかりではなく、客観的に太平洋戦争について考えようという意見が散見された。
しかし極東情勢は75年前の戦争の反省よりも次に起こりうる米中戦争に焦点が当たっている。
正直なところよく75年も飽きもせずに何の生産性もない形ばかりの反省をしてきたと思う。
私は不幸な人間なのと憐憫を誘う仕草を見せているだけだから二週間の反省期間だけ特集を組んでメディアで喧伝しているのだ。
前回の戦争は全世界を相手に戦い米国以外とはいい戦いをしていた。
米国というリアルチートに4年もよく持ちこたえたというのが正直な感想である。
人によっては戦争犯罪等の不幸な出来事について考える人もいるだろう。
だが75年も考えて成果物がないのだから100年だろうが200年も同じことを考えているだろう。
この負の連鎖を断ち切るには次の戦争で勝利するしかない。
勝てば過去の清算もでき未来も主体的に外交ができるようになる。
また世界は日本の自己憐憫に付き合っている暇はなくダイナミックに情勢が変化している。
ここ20年ほどの外交政策如何によっては尖閣諸島や台湾を巡って当事者として戦う可能性も十分にある。
過去の戦争を反省したり、教訓を得ることは大事だ。
しかし過去の戦争を持ち出し、今日の防衛政策の議論を放棄することは許されない。
どういう形であれ軍民合わせて300万人以上が戦死し残したこの国を守っていくことが遺されたものの責務なのだから。
レジ袋有料化について思うこと
7月1日よりレジ袋有料化となった。
経産省はレジ袋有料化は資源削減よりも国民の意識向上を目的にしていると説明している。
しかし消費者に負担を強いても無意味であることは自明である。
なぜならプラスチックゴミの原因は消費者行動ではなく、生産者の過剰包装等に原因があるためだ。
本来ならば生産者に対して過剰包装をやめさせ、生産効率の向上と代替資源の活用を促すよう助成金を与えるほうが効果的である。
消費者は商品が過剰包装であるか気にするより、必要であるから購入している。
レジ袋有料化によって過剰包装に意識は向かないし、ゴミ袋の代用がなくなり家計を圧迫する以外効果はないといっていい。
消費税増税対策で実施されていたポイント還元等各種政策が終わると同時に実施することで低迷している消費マインドをさらに下げるだけだ。
この話は小役人が出世のため、環境対策アピールしているにすぎない。
こうした愚策に国民を巻き込むのはやめてほしいが店舗側の対応にも問題がある。
吉野家など一部チェーン店では環境基準を満たしたポリ袋を使用していることから無料で配布できている。
だがチェーン店の多くは袋の容量によって値段を分けており、一枚10円を超す値段をつけているチェーン店もある。
レジ袋で小銭を稼いでいることが明白であり、顧客や社会を向いて経営していないことがみてとれる。
企業が行うべきなのはこうした有料化に相乗りして小銭を稼ぐのではなく、環境対策をしたレジ袋を導入しサステナビリティ意識を持っていることをアピールする宣伝効果を重視するべきだった。
メディアやsnsでは無料である店がタダで宣伝されており注目を集めた。
異常気象や感染症など社会を取り巻く環境が悪化しているのは事実である。
企業を持続させるには環境に対して企業が貢献している宣伝を積極的に行わなければ淘汰される時代となりつつある。
今回のレジ袋有料化は愚策であるが、環境のために取り組む姿勢はここ数年でさらに高まっており長期的に覆ることはない。
企業が社会とどのように関わるのか、その答えがレジ袋有料化によって垣間見えるような気がする。
香港国家安全法についての雑感
ここまで性急に香港との一国2制度の解消をしてくるとは思わなかった。
香港国家安全法の施行により米中冷戦は一段と深化した。
英国が香港人をイギリス国籍にすると表明したり米国は制裁法案を通過させたりと動きを見せている。
だが中国と香港との距離を考慮しても介入まではいかないだろう。
英国、米国ともに中国本土直近で開戦出来る態勢と兵力、世論喚起ができていない。
よってチェコ蜂起時のソ連戦車の投入による弾圧と同様の事象が香港で行われることになる。
世界の呼びかけはまたも多くの流血によって無効化される。
目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画ー中国による敵国懐柔政策も着実に進行している。
今回の決議を賛同する国は40カ国以上あり、いずれも一帯一路やAIIB加盟国がほとんどである。
中国の巨大な資本によって懐柔されている。
オーストラリアやニュージーランドも国会議員などが中国のフロント企業から顧問として雇われ報酬を貰っているなど顕在化している。
香港騒動と同時期にアメリカ黒人を守ろう運動が発生したが、焚き付けに関与した形跡が出てきているのと報道を見た。
こういった運動は別の国が焚きつけようとしても上手く行くものではない。
自然発生したものに乗っかったというのが正しいだろう。
とはいえ中国の関与とされる証拠が続々と出てくるとイメージ悪化となる。
中国との関係を拒絶するようになれば浸透工作も意味をなくしてしまう。
中国は意図的に膨張しているのではなく、制御できなくなっていると考えられる。
各人が良かれと思って様々なことに手を出し、資金を出してうまく行けば御の字といった感じなのだろう。
何より一度勢いのついたことを止めるのは難しい。
警戒心が薄れて行動が大胆となり、露見することが多くなるだろう。
日本だとメディアの能力が低いのと中国や権力と向き合うことをしないため露見しない。
だが米国の国会議員の中にも資金援助を受けている人がいる以上、日本の国会議員の中にもいて当然だろう。
この状況下で中国と友好関係を維持しようとするのは愚策以外なく、意向が働いていると見た方が自然である。
世界がジョージ・オーウェル「1984」のようになることを心配する人も多い。
だが歴史は圧政に対する民衆蜂起を繰り返している以上簡単に事態が推移するわけではい。
中国の強硬な態度と行動は各国の軍拡への原動力となり、国内の結束を固める要因となる。
チベットやウイグル自治区にある強制収容所を見れば誰もが明るい未来を描くことはできないだろう。
今日本ができることは軍備を整えることと、香港からの離脱者を積極的に受け入れ将来に備えることだ。
あれほどの大国を外から攻撃しても体制を変革することはできない。
呼応する内部勢力の存在がかかせない。
将来、中国に民主的な政治体制を構築するに必要な人材育成等日本にできることは多い。
日本は軍事の行使に否定的であるため絡め手をつかってなすべきことなすしかないかと思う。
まだまだ冷戦構造は継続される以上、長期戦に備える必要がある。
今後発生するであろう香港での大弾圧は冷戦を彩る出来事の一つにすぎないのだから。
『リベラリズムはなぜ失敗したのか』パトリック・J・デニーン
私がモヤモヤして言語化出来なかったことを簡潔にしてくれた本だった。
現代の先進国社会はリベラリズムの拡大と共に個人の自由と権利が拡大したと考えられている。
しかし今の社会は制度疲弊をきたしリヴァイアサンを想定したジョン・ロックも驚くほど国家権力が個人に介入出来る社会が誕生した。
本書は制度疲弊や膨張した国家権力といったもの原因はリベラリズムにあると論じている。
第一章、第二章はリベラリズムの歴史や考え方を色々述べている。
しかしその書き方は私にはかなり読みにくいものだった。
人名が沢山出てきているのとリベラルという考え方自体馴染めないため読むのに労力を必要とする。
第3章アンチカルチャーとしてのリベラリズムから具体的な事例紹介となりだいぶ読みやすくなった。
本書はリベラリズムの性質は個人の自由を伸張するために国家権力と密接に結びつき少数の賢人のみが投票する民主主義を推進すると考えている。
曰く多くの愚民に選挙権を与えると「適切な」リベラリズムの推進の阻害となり社会の停滞を招くと考えている。
問題なのは自由や個人の権利を拡大すると外皮を被っているが、実のところは少数の人間による独裁国家を考えているダブルスタンダードな思考にある。
こうした考え方は文化面でも発揮される。
リベラリズムは文化を大事にしていると一般的には考えられている。
しかし多様性を尊重するがあまり全ての文化を破壊している。
これは自由経済やグローバル化によって大量の情報や別の価値観入れることで文化のもつ排他性をなくすことで文化が喪失する。
リベラルな個人の考え方尊重しているが、私のようにリアリズム思考をもつ人間に対して「思考が偏っている」と批判しているのと同じことである。
一件「リベラリズム」という考え方以外も尊重しているようにみえるが、他は不自由で偏った思考であるため批判し排除しようとする。
多様性を重んじているようで最終的に否定するのだ。
人間という近視眼的で浅はかな思考をもつ動物であることを失念し、無制限に自己を肥大化した短絡的な愚者がリベラリズムという正体であると私は思った。
とはいえ著者は民主主義や自由を否定するつもりはなく、リベラリズム以降の新しい理論を構築する必要があるとと提言している。
第一に、リベラリズムの功績を認めて、リベラリズム以前の時代への「回帰」願望を持つことは避けるべきである。そうした功績を土台にする一方で、失敗の根源的な原因を捨てなければならない。戻ってはならない。前進あるのみだ。
悲観的でなく常に前向きに未来を見つめつつ、現在の問題点を洗い出す姿勢こそリベラルの在り方を見ました。