戦争責任について思うこと
毎年のように当時の政府及び天皇の戦争責任について問う議論が出てきている。
しかし菊タブーや左翼の極端な論説が幅をきかせていたことから議論は低レベルなものに終止することが多い。
低レベルな議論は極東軍事裁判における各種判決内容と、戦争指導していた集団に対して敗戦の責任を問うことがごちゃまぜにしていることにある。
極東軍事裁判についてはすでに多くの論説が展開されている。
曰く法律の基礎である法の不遡及を犯してまで戦勝国が敗戦国を裁く私刑がまかり通った。
ニュルンベルク裁判と合わせてこの裁判以降、戦争を犯罪として取り扱うように国際社会は変容した。
勿論サンフランシスコ平和条約によって日本は裁判の判決を受けいれている経緯があるこては知っている。
だが判決を受け入れるが裁判のやり方自体に問題があれば無効となる。
例えばイラクで捕縛されたサダム・フセインは裁判で死刑となったが、イラク戦争を始めたきっかけである大量破壊兵器を見つけ出せず、多くのイラク人を殺害し国家を解体した罪をアメリカがとることはない。
戦争の違法化と裁判における勝者の正当化の根拠とすることで正義は歪められる現状が続いている。
敗戦=犯罪者として処刑される現象はWW1後の共和制ドイツへの多額の賠償金を彷彿とさせる。
WW2になりドイツは降伏したフランスに調印させるため、わざわざWW1のときにドイツが調印した列車を持ち込んで調印させた。
敗戦=国家という共同体に汚点を残すようなやり方は将来的にしっぺ返しがくるようになっている。
仮にWW2で日本が勝利しセオドア・ルーズベルトを裁判にかけたとする。
罪状は日本にハワイを攻撃させ、わざと損害が被るようにしたことで戦争責任を問えば納得する米国民はいないだろう。
また原子爆弾を広島、長崎に投下したり、日本各地を戦略爆撃で灰燼に帰したことは人道に対する罪に相当する。
しかし人道に対する罪に納得する米国民は少ないだろう。
原子爆弾投下は日本本土上陸によって失われる50万人の米軍人の人命を救った行為とされているからだ。
だが軍人を救うために多数の民間人を原子爆弾で殺害することを正当化することは正義の観点からみても不適当であることは論をまたない。
結局の所裁判における責任は敗者が敗者らしく勝者の正義の鉄槌を受けることを意味しているに過ぎない。
戦争の違法化は勝者の正当性を担保する以上の意味をもっていない。
こうなると極東軍事裁判での判決は議論する意味はない。
だが論説がごちゃまぜになるのはテキトウにつけられたABCという評価と戦争指導していた人に対する敗戦責任がリンクしていることにもある。
指導層はA評価がつけられるため処刑台送りになる。
処刑される程の酷い敗戦にした罪によって処刑されたと捉えることもできる。
極東軍事裁判はある意味で日本国民の指導層に対する敗戦の恨みを晴らす場を提供したとも言える。
だが恨みを晴らすことは極東軍事裁判でなくともできることだ。
裁判を正当化するのではなく指導層に対する敗戦の責任を問う一点に絞れば議論は単純化できる。
敗戦の原因は長期的な見通しを考慮せず、米国の国力を適切に判断できなかったことにある。
当たれば必ず負ける相手と戦い、予想通り負けた。
米国が日本に戦争をふっかけたかったという論説もある。
だが負けることが明白な状態で戦争にしないようにするのが外交である。
満州国の共同開発やシナ大陸で日本が制圧した地域に米国資本も参入させることで共同開発にしていくことなどできた。
譲歩ができなかった理由は権益を独り占めできると錯覚した見通しの甘さにある。
隣国との力関係を考慮せず自国の権利ばかりを主張するやり方は外交ではなく脅迫である。
現在の中国がウイグルやチベットを征服し、南シナ海の南沙諸島を不当占拠し、尖閣列島に対して不法侵入繰り返すことに日本が抗議していることと同じことをしていた。
日清・日露のように輝かしい勝利によって大国米国と和睦を結ぶという理想によって始められた戦争は米国世論が参戦に統一されたことで瓦解した。
その後国力差によって防衛一方となり押しつぶされた。
この責任を問うことが意味のある議論となる。
軍部は戦争に対して共同歩調をとることなく常に対立していた。
陸軍はシナ大陸とソ連に注力していたし、海軍は米国の戦争に注力していた。
互いに連携をとる意図はほとんどなかった。
また政策レベルで両者の連携を取れる立場にいた政府は統帥権干犯を恐れて介入できなくなっていた。
政府=軍部といっていい体制となったため外交も硬直したものになり、米国側の立場を理解できる人物に欠いた。
交渉は自分たちの望みをいかに多く通すかに変わっていた。
譲歩できない線が多かったため交渉は決裂したことで責任は軍部にあるといっていい。
同時に政府や国会といった文官も軍部の台頭を容認した責任がある。
現役武官制度の阻止失敗や外交の下に軍部がいることを示すことができなかった。
なにより統帥権干犯に極度に恐れていたことが大きい。
政府=軍部となった以上、この状況を収めることができるのは天皇のみとなった。
だが敗戦後天皇の法廷での裁判を受けさせないよう生贄を複数人出したことを考慮すると本末転倒である。
結論いうと天皇に軍部を抑える能力はなく、天皇のすげ替えも画策されていた。
天皇はイギリス式の君臨すれども統治せずを実践しており、職責を最大限こなしていた。
内閣が倒閣するたびに和平をつかもうと人選するが、その人達に能力が欠如していた。
そして天皇自身の統帥権を行使する段階となったときには軍部によって周囲を固められていた。
この状況は原子爆弾投下後まで継続され、閣議で継戦派と和平派が半数に割れたことで初めて統帥権を行使できる状態となったのだ。
戦後は日本国の象徴として和平への祈りと外交に尽力された。
天皇は責任をすでに果たしていると考える。
戦前の未熟な民主主義が崩壊していく中で自らの職責に最後まで忠実だったのは他ならぬ天皇陛下であったと思う。
1国民としては段々と理性のある議論ができる環境ができることをただ望む。