私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

愛知トリエンナーレの表現の不自由騒動について思うこと

あいちトリエンナーレの表現の不自由展が開催中止となった。

慰安婦の女子像を展示したり昭和天皇の肖像を焼いた映像をみせるなどしたためだ。

国費10億投入したとも言われており批判が殺到した。

 

この件ではてなツイッターは一色に染まってしまった。

各人が好き勝手言えることが香港とは違い民主主義が根付いている証拠だと思う。

本件に関して思うことは唯一、国費でやる必要はなかったに尽きる。

 

どういう思想であれ日本では表現の自由が認められている。

戦前の日本のように天皇批判をしたら特高警察に拘束されることはない。

三者の目を気にしなければ皇居前広場天皇の写真を燃やしてもいいことになっている(別の容疑で拘束されるけど)。

今回の騒動は左翼の典型的なパターンで面白みは何一つない。

お決まりの幼稚な表現の体制批判の展示会である。

見ている人を不愉快にさせることについて他の追従を許さない展示会である。

思春期になった子供が不良になって世の中にケチをつけるように大人になっても成長しなかった幼稚な大人の夏休みの自由研究でしかない。

これを私費や募金を募って開催したのならば彼らにしてはイケてると思う。

権力に縛られることなく自分たちの不自由さを表現したのならば本懐であったと思う。

しかし今回は公費が投入されている。

税金が投入されている以上、今回の展示会は不適切となる。

政府の方針と異なる刊行物を政府が作ったら問題になるのは当然である。

今回の展示会も国費を投入した以上はオーナーの意向に従うのは当然である。

左翼の幼稚な考えでは金はふんだくるけど口は出させないということはある。

しかし金を受け取った以上は政府の方針に従うのは当然である。

本件に関して金を出す方は当然一番の責任がある。

政府の意向と正反対の刊行物を作る許可を与え、国費を投入したことは罪である。

表現の自由を謳う前に公僕であることを失念している。

公費の横領と言ってもいいだろう。

しかし展示会の主催者も表現の不自由を謳いながら公費でやる浅ましい考え、批判が殺到したら中止にする腑抜けっぷりにはがっかりさせられる。

他人の神輿に乗って表現の不自由とか言っても説得力がないしコンセプト倒れもいいところである。

また中止にする判断もダサい。

賛成者と反対者が会場で衝突することも表現の不自由を表す展示物の一つとなり得た。

誰かが血を流し、作品が傷つけられることも表現として現れる。

だがそれもしなかった。

最終的には自治体も主催者も芸術について理解していなかった。

にも関わらず大金を投入してゴミを作ったと言っていい。

そしてゴミに賛否両論言えるこの環境でもって表現の自由を表してしまった。

興醒め甚だしい。