私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

子供に携帯を与えることについて思うこと

嫁が結婚式に行ってきた時に知り合いの子供にあった。

その時写真を撮っていいかを聞いたらポーズまでしてくれたと話ししていた。

最近では子供をあやすのに携帯で自分の顔を写すと喜んだり、youtubeで動画を見せたりするらしい。

また生まれたときから携帯があるため撮られたりすることにも抵抗感が少ないように思う。

しかし携帯については教育に携わる多くの人が反対している。

自主性が損なわれるだの、目が悪くなるだの、犯罪に巻き込まれるといったことも懸念される。

こういった論調の多くは私が小さきときに聞いたテレビをみたら頭が悪くなるという話と同レベルでしかない。

そして現在の高齢者の多くは新聞とテレビしか観ていない。

自分たちが禁止したものに自分たちが依存している。

おそらく携帯は禁止しても自分たちは使用しても良いと言うのだろう。

その異なる判断基準は大人か子供かの相違でしかない。

しかし100年人生と言われている現代社会で大人の定義は昔より難しくなっている。

かつて女性の婚姻可能年齢は16歳だった。

男は18歳であったから女子の方が早く大人として認められるのかと思う。

しかし現実には未成年の結婚には両親の同意が必要である。

では選挙権の取得である20歳は子供なのだろうか。

これも選挙権を取得する年齢が18歳に下げられてしまった。

18歳がキチンと分別がつく年齢とされたかというとタバコや飲酒の年齢が20歳であることから違うらしい。

これだけ近年でも定義が変わっている世の中にあって大人の定義も曖昧となっている。

 

また大人が分別ついているかというと政治家を見ているだけで理解できる。

その国の民度を図るには政治家を見ればいいという格言がある。

分別のついた大人が選挙権を行使した結果選ばれている人たちをみると分別ついているとは思えない。

他にも周囲を見てみれば大人気ない人たちを目にするようになった。

これもテレビを見続けた子供の成れの果てと言えるのだろうか。

 

実際のカリキュラムを見ても自分の子供時代に教わったことと大きく異なっている。

何故なら研究によって新しい発見や

既存の説が間違っていたなどが反映されるためである。

また塾等の学外で学べる環境も充実している。

昔は塾でも集団学習が基本だった。

しかし今では個別指導塾が当たり前だし、ネットで好きなときに授業を受けることができる。

この充実した環境に子供を送ることができるかで子供の生涯年収が変わる。

よって貧富の差が固定化される懸念もあるくらいだ。

これだけ子供にも選択肢が多数ある世の中において分別がつかないというのも言いづらい。

大人にとって子供に唯一対抗できるのは人生の経験値以外なくなってしまう。

 

携帯を子供に渡すかという判断基準は経験値から導き出された結論に他ならない。

ならば子供に説得してみるしかないように思える。

分別がついていると思われる両者の妥協点を探ることで納得してもらう。

これだけ情報が溢れた社会では子供に隠しだてしてもバレてしまう。

両者の関係は親子から主従関係へ歪に変化するだろう。

良い子育ってもらおうとして高圧的に接した結果、悪い子に育ってしまうのはよくある話だ。

親にとって最も大事なことは子供が元気にたくましく育つことだ。

携帯を与えるか与えないかで子供に生涯にわたる悪影響を及ぼすようなことは考えにくい。

また中学校や高校に入ったら必須のもので与えることなる。

数年間の差でどの程度変化するのかもはやわからない。

携帯をそのまま渡すのではなく制限を加えたものを渡すとか交渉した方が子供に携帯について深く考える契機となる。

この対話こそアリストテレスから続いている教育の姿だと思う。