私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

オウム真理教教祖死刑執行から死刑制度について思うこと

オウム真理教の教祖に対して死刑が執行された。

メディアで大騒ぎとなっており、今でも報道が続いている。

オウム真理教がおこした事件は今の日本でもインパクトがある。

特に地下鉄サリン事件は2018年現在、世界中のどの国でも対策ができていない。

地下鉄の構造上の問題に起因しており、化学兵器テロの脅威を再認識させられた事件でもある。

当然今でもテロ対策関係本では教科書的な扱いを受けている。

当時の日本では終末思想等、いろんな思想が流行っていた。

アニメの世界でもこれから発展するネット社会に対して、大真面目にネットの中では人格が保持できるか否かが議論されていた。

世界的にはソ連が解体したことで民主主義の勝利を歌っていたが、拡散される核の脅威等によって世界がどうなるかなど議論があった。

日本では新興宗教がいくつもメディアに登場して世間を賑わしていた。

 

語るのが難しいが、とはいえ今回7人の死刑が執行されたことでここまで大騒ぎとなるのも思えば変な話だと思う。

 平成という歴史が終わりつつあるときの風物詩として記録されるだろう。

しかし死刑を廃止することを訴えたりする理屈が不明である。

この国では年間3000人以上の人が交通事故でなくなる。

また自殺者数は年間2万人を超える。

この人々に対する報道より大きな報道がされている。

これだけで死刑の目的である見せしめの効果が十分にある。

 

死刑廃止論というのはかつての見せしめの刑罰執行に抑止がきいていないことが前提として始まったと思う。

犯罪抑止の観点より社会復帰を目指すやり方は以前話をした。 

しかし死刑を無期懲役にして一体どんなメリットがあるのか不明だ。

刑罰は法の適用を通じて行われる権力による見せしめである。

この理屈にたてば死刑の方が見せしめとしての効果がある。

当然今までの死刑廃止論の抑止がきいていないことへ反論できていない。

だが犯罪者を更生し、社会復帰させることも犯罪抑止を狙った見せしめといえる。

問題となったのはあくまでも広場に人を集めて行われる刑罰執行であり、見世物としての効果が現れたことによる。

 

現在、死刑は手順に則り非公開で執行される。

公開しないことで、恐怖に訴えることもできる。

誰にも見られることもなく、規則に則り執行されるという人間味ない行為こそ抑止効果があると思う。

また死刑囚を無期懲役で刑務所に入れておくにも多額の税金が投入される。

誰しもが過去の犯罪をずっと覚えていられない。

閉じ込め続ける意味はない。

死刑執行によって法秩序が保たれている証明ともなる。

 

人間が人間を殺すことはいかなることでもいけないという理屈もある。

だが私はそう思わない。

そういった考えの人間の思想の自由は保証されないのだろうか。

世界には死刑廃止国とそうでない国がある。

わざわざどちらかに合わせる必要はない。

なぜなら法律は国家が制定するだからだ。

当然国ごとに差が出てくる。

世界を一つの法で縛るには、人類は到達できていない。

それはEUの分裂や多極構造化している世界をみれば明らかだ。

いかなるときも人を殺してはいけないという基準を人に押し付け、制度をそうしようとしている。

殺人は存在しないということを見せることで抑止しよとしている。

しょせんは想像力の欠如した机上の空論でしかない。

なぜなら何かを成し遂げたり、守りたいということで人を殺めるのだからなくすことはできない。

少女連れ去り未遂から思うこと

仁藤 夢乃 - ‪今日の14時半ごろ、渋谷から山の手線に乗っていたら、私の前を6歳の女の子が通り過ぎた。そのあとすぐ、... | Facebook

急に人気エントリーに3つも入っていたのでみた。

彼女の行動自体は称賛に値する者であり、記事だけをみるなら周りの男どもの不甲斐なさと世間の冷たさに心が痛む事件である。

連れ去られようとしていた少女に声をかけて、犯人の前でもかばい続けることは誰にでもできることではない。

周りの助けも得られずさぞかし心細かったと思う。

 

しかし性格の歪んだリアリストからみると、周りの助けを得られないのは当然だと思う。

近年痴漢や犯罪に巻き込まれた人を助けた人が疑われたり、犯罪者扱いされる事件が頻発している。

危険と思い子供に声をかけたら防犯ベルを鳴らされたとか、痴漢の冤罪で裁判になるなど個人が背負う社会コストが高くなっている。

セクハラの定義もあるが、セクハラ認定された段階で社会において居場所がなくなる。

セクハラの定義とは何か?セクハラ認定される言動と行動一覧 | 労働問題相談所

性的な言動等細かい定義はあるものの、第三者に認知された段階で無意味なものとなる。

裁判に勝とうが失った信頼は取り戻すことができない。

眼の前で子供が連れ去られようとしている状況に出くわしたとして、助けた場合のリスクが上記のことを考えると高くつくこととなる。

助けたはずなのに自分が疑われる可能性もあるからだ。

そして性犯罪者扱いされたら社会的に破滅する。

また近年は無敵の人が増加している。

自分と対峙した相手が刃物等を持っていた場合殺される可能性もある。

だからこそ新幹線で対峙して亡くなった人は称賛されるのだ。

そして希少だから称賛され、注目される。

その背景には数多のできなかった事例がある。

今回もその一例となるだろう。

 

助けなかった人たちも批判をされる言われはない。

なぜなら彼らにも守るものがあるからだ。

会社での地位や自分自身もあるだろう。

それ以外にも家族であったり、自分の子供も含まれる。

自分が他者を助ける過程で殺されたりしたら、残されたものはどうするのかという問題もある。

社会は称賛するだろうが、残されたものには意味のないものだ。

失ったものは取り戻せないのだから…

社会としては助けるのは道徳的にみて正しいこととなる。

しかし個人としては助けないほうが、自分たちの幸せを守ることとなる。

これは70年以上憲法9条のおかげで平和を保ち続けているといっている連中と同じだ。

周辺では戦乱が常にあるのに、具体的に助けもせずに自分たちは平和を享受しているのと一体何が違うというのだろう。

連れ去り事件の現場において最も必要とされたのは物理的な力の誇示である。

これは紛争地帯を平和にするのにも同じことである。

武力は平和をもたらすことがあるという事実を無視した結果起こったことである。

 

話がだいぶズレた。

助けなかった人たちにも生活がある。

眼の前の人を助けようとすることで支払うコストが高すぎることに問題がある。

冤罪や助けた人を踏みにじるような行動によってコストが増大している。

警察や司法までもが協力して、特に男性に圧力をかけている。

リベラルが女性の人権を唱え、権利を拡大するのはいいことである。

しかし過剰に主張することで何かをすれば犯罪者のような扱いをされるとわかっているならばわざわざ助けようとしないだろう。

特に小学生等に声をかけるだけでも犯罪者扱いとなる今ではなおさらだ。

しかし犯罪が起きるその時は助けてくださいというのは虫のいい話だと思う。

仮に少女を助けた人が男性であった場合、少女の反応は違ったものになるだろう。

少女からみれば危険人物が2人に増えたと錯覚することとなる。

仮に犯罪者を追い払ったとしても、助けた人が犯罪者扱いされることは目に見えている。

また助けた女性が3人組に声をかける前に、男性が助け舟を出したとしても必ずしも好意的に受け取られないだろう。

服装等があやしいと思われれば、犯罪者が2人に増えたと思われる。

例えば汗っかきのメガネをかけたデブやひょろりとやせ細ったいかにもオタク風情であればそう思われても仕方がないと思う。

まぁ犯罪者が2人になると思わなくても、信用できるかといったことや助けた後の対応がどうなるかは未知数だ。

助けた後のことまでコストを考えなくてはならないならば、助けない選択肢を取るのはありだと思う。

これから子供を持つ親はさらにコストを強いられるだろう。

子供の送り迎え等、いつ発生するかわからない犯罪に対応するのは大変である。

そして同時に人々に「人を見る目」がないのも顕著になったと思う。

誰に声をかけたら助けてくれるかといった人から得る情報を読み解く力が弱くなっている。

男性だから助けてくれる。

駅員だから助けてくれる。

わけではない。

助けるか否かは「その人」が決めるのだ。

緊急事態のとき、助けてくれるのは携帯電話ではなく、人を見る目である。

高級品を持つことと人の器について思うこと


現代ホスト界の帝王 4000万のロールスロイス納車。「ROLAND-完全密着- vol.017」 [KG-PRODUCE]

4000万円というのは高額過ぎるが、高みを目指そうとしている人は共通して高いものを買う。

泊をつける意味合いや退路を断つということで買うのだ。

 

間違えて編集途中のを投稿したので追記します。

 

いいものを身につけると、理想像になれるという話がある。

背伸びして買ったものに自分がフィットするように動くということだ。

子供がなんでも背伸びしたがるのとかわらない理屈なので、結構真理をついていると思う。

人生のいくつもの地点で、成長をしなければならないといった要求をされる。

自分自身がそう思うこともあるし、周りから暗に要求されることもある。

その時手っ取り早く成長するには高額商品を身につけることだ。

とはいえただ買えばいいわけではない。

自分がこれだと思った商品でなければならない。

人から勧められたから買うのでは、その人に近づけても理想には到達できない。

 

商品を選ぶ際に理屈や機能を優先させる人がいる。

しかし理屈や機能は選んでから考えることだ。

高額商品は欠点があることが多い。

それは個性を出した代償でもある。

車で機能だけに限れば、中古車でことは足りる。

安全性や車で移動する事等値段と合わせれば軽自動車でもいい。

クラウンやレクサス、外国車を買う理由はない。

 

自分は昔スバルのレガシィB4に乗っていた。

新しい車がほしいと思っていたのと、大人になったらいい車に乗るという義務のようなものがあったから探していた。

トヨタや日産、アウディアルファロメオ等いくつもサイトを巡って探していた。

スバルに行き着いたのは一通り探し終えてからだった。

スバルは国産車でもマイナーメーカーだ。

スバリストという名の変態共がこぞって乗っているのがスバルだ。

正直車を見るまでいいものはないと思っていた。

マイナーであるから車種も限られており、内装等も劣っていると考えていた。

しかしレガシィを見たときに衝撃が走った。

これがほしい!という強烈な感覚を味わった。

とはいえ定価400万円の代物なのでそう簡単にかうわけにもいかない。

スペック等他車種と見比べたりしたが、所詮は理由付けに過ぎなかった。

かくして変態共の仲間入りを果たしたわけだが、仕事にもやる気が入った。

車を維持するために3日間貫徹したり、様々な人間からなじられたりしても仕事をやめようとはあまり思わなかった。

なぜなら仕事をやめたら車を維持できなくなるからだ。

しかし転勤を期に事態が一変した。

駐車場が月2万円という高額な場所に住むこととなったため、車が維持できなくなった。

思えば転換点だったのだ。

車をとるか、仕事をとるか悩んだ。

とはいえ将来役職者になれるという道があった。

今の時代、将来像を描きにくくなったのにもかかわらず自分の前には将来像があった。

結局、車を手放した。

そして1年ほどたって仕事も手放してしまった。

 

転職して新しい仕事にもなれてきた。

とはいえレガシィのような高いものをもっていない。

そのため自分が小さくまとまっているような気がしてならない。

高いものを持てばおおきくなるわけではない。

だが、そういった気がするだけでも効果はある。

自分が本当にいいと思ったものは手放してはならないと思った。

今度手放すときは仕事を辞めてみようと思う。

 

サッカー日本対ポーランド戦から日本のサッカーについて思うこと

日本がボールを回し続けて選手交代を妨害、仕方なく座り込むポーランド選手、もう地獄絵図だったよなw : 大艦巨砲主義!

スポーツは好きではないので今回のサッカーも全く興味がなかった。

とはいえ今回の日本代表のレベルが以前より低下しているような話は入ってきた。

ポーランド戦で勝てばベスト16位という状況で日本は後方にてパスの連続だったらしい。

観客からブーイングがでている中試合終了とのことで今日まで色んな人が賛否を投げかけている。

以前から思っていたが、日本のサッカーは1位を取りに行く戦い方ではない。

点数をいちいち数えて狡猾に動き回っている連中が天下をとれるわけはない。

そもそも勝ちに行くという気概がない以上、今の日本の目標は1位ではないことは明白だと思う。

毎回試合のたびにコンスタントにベスト16位にはいる。

これが今の日本のサッカーの目標となっている。

後半の試合運びはベスト16位に入るという目標なら問題はない。

しかし将来的に1位になりたいと思うなら、積極的に動くことを求められる。

どんな相手でも正面からねじ伏せるくらいの力量がなければ日本は1位になることはない。

次はベルギー戦らしいが勝利は無理だろう。

目標を達成した日本は腑抜けているから負けるだろう。

 

毎回日本は自分たちのサッカーという謎の教義にこだわり続けている。

でかい口を叩く割にはベスト16位どまりで、ときたまベスト8位に入る程度である。

投入したコストに対するリターンが少なすぎるような気がする。

全国でサッカークラブが数多あり、そこから排出される数多の選手から選ばれたのが11人というのはどうなのとは思う。

レベルが低い選手が選出されるということは全体のレベルも低いことに他ならない。

サッカーの練習をどうしているのかは知らないが、全体のレベルを向上させない限りこれ以上の成長はないだろう。

サッカーに限って言えば田舎の中堅高校レベルのような精神状態ような気がする。

今の自分達の実力ではベスト16位程度だろうという目測で勝利を目指している。

絶対に1位にはなれないという諦めのような雰囲気を感じる。

まったく興味のない人間がみてもそうみえるのだから、知っている人たちは余計に感じることだろう。

1位を目指すこともしないような連中の試合を見て、一体何が面白いのか自分には理解できない。

 

どのスポーツにもいえることだが、所詮は娯楽でしかない。

観客を楽しませて、会場に足を運んでもらう。

またグッズを購入してもらって収益化している。

1位を目指すにしろ、16位を目指すにしろ娯楽である以上観客を楽しませることが第一である。

その上でより高みを目指すことが求められている。

そうでなければ多額の資金を投入して運営している必要がない。

1位になったからといってその団体や選手たちにはリターンがある。

しかし提供している企業は広告収入以上のメリットはない。

企業は提供を通じて、観客に楽しんでいただき企業の認知やプラスイメージを植え付ける効果を狙っている。

娯楽である以上選手や監督たちは観客に楽しんでもらうサッカーをすることが求められる。

それはボール回しの曲芸ではなく、ルールの中で勝利をどうどうと勝ち取る姿勢だと思う。

そういったひたむきな姿勢や態度が観客の心を掴む。

日本のスポーツ界全体にいえることだが、頑張ったから偉いという小学生のような理屈が平然と通る。

ベスト16位で敗退したとしても頑張ったから偉いという評価となる。

頑張ったは選手たちが感じることではあるが、偉いという評価は当たらない。

協賛企業や観客達は楽しみたいのだ。

「自分たちのサッカー」という教義の中身がぶれており、中身がないため毎回いいわけのようなことばかり言っているように聞こえる。

毎回のように課題と何かの成長というワードを入れてくる。

しかしプロの世界は勝ち以外は無に等しい世界である。

勝ちか負けかという厳しい世界に身を投じている以上、批判や指摘は常にある。

それが可愛そうだの努力しているという指摘はプロに失礼である。

これはスポーツだけではなく、一般企業で働いている人たちにもいえることだ。

結果を残さなければ企業は立ち行かなくなる。

成果を常に求められるのはどんな企業でもある。

スポーツだけが例外ではないということがわからないというのが、如何に閉塞したコミュニティであるかがわかる。

全体を俯瞰し勝利を求め続ける姿勢がない以上、見るだけ無駄なような気がする。

NewsPickのさよならおっさん広告をみておっさんに思うこと

 

note.mu

 

 

kabumatome.doorblog.jp

 NewsPickの広告がちょっとした話題になっている。

広告としては成功したのかもしれない。

とはいえ電車の中吊り広告とか多方面に展開しているのでコスパは良くなさそうではある。

リベラル色が強くあまりみてはいないが、望月優大さんも藁人形の話を出しながらつまらない広告と言っている。

 

 

「おっさん」というコピーから「中高年の男性」を想起しない人がどれくらいいるのでしょうか。「年齢」や「性別」は人間の属性であり基本的に変更不可能なものです。「さよならおばさん」だったらどうでしょうか、「さよならおじいさん」だったらどうでしょうか。別の様々なカテゴリーで「さよならZZZ」の例を挙げていくこともできはしますがおぞましいので控えようと思います。

実態のない藁人形を作って燃やして喜ぶというのは「凝り固まったルールや価値観」そのものかなと思います。反復すべきでないものを、結局反復しているように感じますね。

 

 

この一文はまったくおっしゃる通りとしか言えない。

言うことがないので自分はおっさんについて思うことを書きます。

おっさんの社会的地位の低さは年々より低くなっている。

ネット社会に伴う情報の氾濫と既得権益の可視化、20年を越した失われた日本。

その原因がおっさんという言葉に詰まっている。

今まで社会を引っ張ってきたとされる存在はお荷物や障害として認知されている。

そして権威の失墜は体臭や服装のだらしなさ、ギャグセンスの古さといったことまで指摘されている。

しかし反するように社会はおっさんによって回っている。

仕事をすること自体が既得権益を得るための行為である。

そのため会社で地位が上がること自体年齢も上がり、収入も増大する。

 

一方でこれがさよならおばさんであったら炎上案件となる。

しかしおばさんという表現にも暗喩が込められている。

女性が年齢によって評価されていることや、思考が古臭いといったこと、加齢に伴う身体的老化現象の表面化といったことだ。

おばさんという表現にはマイナスの評価が多いことがわかる。

おっさんは既得権益等のプラス要素を包含しているが、おばさんにはそういった評価がすぐには出てこない。

おっさんはなってしまうものだが、おばさんはできる限り回避し続けるものと扱われている。

それは未だこの社会が女性を弱い者として扱っていることの現れでもある。

得るような権益を有していないことの現れでもある。

女性の社会進出が盛んに喧伝され、男女雇用機会均等法等の法整備も進んだ現代社会でも人々の思考を変化させるにはまだ足りていない。

実際には氷河期世代等多くの非正規雇用でありながらおっさんになっている人も数多くいる。

しかし彼らは自己責任のもとに不安定な環境に身を置き続けることになっている。

いつしか広告でさよならおばさんという広告が出ることが男女平等になった証なのかもしれない。

 

ネット刺殺事件について思うこと

 当初は書く気がなかった。

しかしはてなブックマークを廃止するとか結構話題になっていてノイズが酷いので書いてモヤモヤ発散させようかと思った。

今回の事件はときたま起こる有名人が襲われるのと構図は変わりない。

ジョン・レノンとか国内外問わず様々な人が襲われている。

言ってしまえば有名人になればそういったイカれた人もひきつけてしまうということに過ぎない。

ネタがないのか知らないが自粛による言論の自由に対抗しようとか、被害者加害者の思想や発言がどうとか言っているのはお門違いだ。

ネットと実生活との区別が出来なかった人間による衝動的な犯行に理由を求めるほうがどうかしている。

 

逆に詳細な分析とかしている連中の方が心配になる。

一体どこに目をつけているんだと理解に苦しむ。

今回の事件でハテナの運営やネット社会の転換点とか言っているやつも加害者と思考が一緒に思える。

ネットに接続している人口数を考えればたまたまハテナ関係で事件が起こったに過ぎない。

ハテナ以外でも同様の事件は今後も起こりうる。

昔は北野武が新聞社を襲ったとかそういった類のものである。

ネットは昔に比べて個人が発信できる情報量が安価かつ、大量にできるようになった。

その副作用にでしかない。

早くノイズが消えてくれるといいんだけどなぁ。

大学と軍事に関わる研究について思うこと

blog.livedoor.jp北海道大の研究は船から気泡を出して船体の抵抗を低減する研究らしい。

東大等でも防衛省に協力しないという姿勢を示している。

大学は日本の左翼活動の根拠地であり、未だに崩されていない牙城の一つでもある。

最近ではネットリテラシー的に評判を落としているgoogleも評判回復のためにペンタゴンに一部分野で協力しない方針を示している。

リベラル的に軍事から離れることで自分たちの手が綺麗であることを示したいのだろう。

国の助成金を受けて大学や会社運営ができている。

その国がなくなったらどうするのだろうかと思う。

もちろんひとつの研究をしないから戦争に負けるとかいう話でもない。

だが平時から協力姿勢がないのに非常時には足を引っ張るのは必然である。

戦争への道は善意の道で敷かれているとはよくいったもので、協力しないために助成金を出す国自体が消滅することとなる。

 

ずいぶんとぶっとんだ話から始めた。

とはいえ軍事に関わることを学内秩序や道徳を理由に拒絶する姿勢こそ日本の研究が世界から遅れていることの一つとみなせる。

だいたい世の中はすべてつながっている。

軍事にかかわらない研究というのも事実上ないのだ。

理系科目は軍事と密接である。

文系にしても例えば民俗学は相手国の風習を知るのに有効である。

言い出せばきりがないが、その線引はいったい誰が決めるのかと思う。

大学が言っている軍事分野というのはどういった基準なのかとも思う。

防衛省が出資しないものという定義も不十分だと自分は思う。

民間技術が軍事分野で成長した事例など枚挙にいとまがない。

どうせなら国の助成金をすべて断るぐらいの気概を持ってもらいたい。

自分たちは国に依存していないという姿勢を示さずに「おててが綺麗」と言っても説得力がない。

 

日本の大学研究はどこも予算がない。

国から予算が降りても厳しい審査や成果を求められる。

税金を投入している以上致し方のない面もある。

そんな中でも軍事分野はどの国も比較的審査は緩い。

なぜなら国家の将来に関わる分野であり、審査自体も実体を伴い成果物として証明しやすいからだ。

また軍事に関わると最先端の研究と一般市民は思うため、審査をする側も通しやすい。

カネがないという状況で大学側は厳しい経営を強いられている。

乗っかれば予算を別口からもらえるのだからいいんじゃないかと思う。

メンツにこだわるあまりに大局を見誤り、結果戦争に負けた国がある。

同じようにメンツにこだわるあまりに大学経営が立ち行かなくならなければいいけど、どうなんでしょうね。

 

また日本の大学が研究を拒否したとしても、他国で研究される。

結果は一緒なのだ。

自動運転技術は危険とかいろいろ言っている人達がいる。

しかし彼らが使っているスマートフォンはかつて携帯電話として普及し始めたときにさんざん危険性を喧伝されていた。

電話をするときに耳に当てると、電波が振動となって脳内を揺らしたり、脳みそが熱くなったりして危険と言われた。

また携帯の発する電波を大量に浴びると生殖器官の異常や生殖しにくくなるとも言われていた。

だが2018年現在、携帯電話はさらに進化を遂げた。

またLEDである青色発光ダイオードも注目を浴びたときに光が目に与える影響についていくつもの批判が出た。

しかし2018年現在、日本政府は2025年のCO2排出量25%削減の目玉の一つとして、照明器具のLED化を推進している。

日本の大学がどんなに嫌がったとしても、別の所の手柄となる。

なら自分たちで作ろうという研究者の気概がない。

そういった老人たちが若者に言っている覇気の無さというのは、自分たちのことではないかと思ってしまう。

批判されたくない、リスクを取りたくないという姿勢が現れている。

リベラルという都合のよい隠れ蓑に隠れて、研究者として成し遂げることを失念しているように思った。