犯罪者の更生について思う
出所した人間による再犯というのは記事になりやすい。
刑務所の体制不備を指摘し、感情に訴える効果が大きいため多用される。
過去最悪というマスコミの表記はミスリードを誘っている。
「再犯者率、過去最高」のカラクリ 犯罪白書でミスリード報道相次ぐ(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース
しかし再犯率が3割あるというのは自分は高いと思っている。
そもそも刑務所において更生させるというシステム自体に問題がある。
己の罪と向き合い被害者とその家族等に申し訳ないという心境の変化を与えるために刑務所は不適当である。
刑務所は囚人から自由を奪い、規律正しい生活を営むことを強要することを通じて己の罪と向き合わせようとする。
確かに囚人側からすれば自由がないことは苦しいことである。
しかし刑務所の不自由な生活を味わうことで罪を許されたと勘違いする人もいる。
苦痛を味わったから罪と向き合ったという解釈だってできる。
また犯罪者の中には刑務所内にグループを持っている人もいる。
そういう人は他の囚人に比べて自由の幅が広がる。
また孤独であることも癒やしてくれる。
そういった環境下で果たして更生できるのかと思う。
自分は刑務所より学校のほうがよほど監獄として理想的な環境であると思う。
常に他者から監視の目に晒され、挙動を監視され、逸脱したと見做されると一斉に人格攻撃までされる環境はまさしく監獄である。
リベラルの風潮が犯罪者に寄り添うようになったのは、大衆に犯罪者を晒し者にして刑を執行していたことから始まる。
うる覚えであるが、昔は広場の中心で犯罪者を晒し者にしていた。
しかし見せしめにして刑を執行しても効果が薄いことがわかったらしい。
それから犯罪者に重い刑を与えるよりかは更生させる方針に切り替わった。
元々は犯罪者に形は違えど罪の重さをより感じてもらうために導入された。
しかし時代が進むにつれ、犯罪者の人権養護がエスカレートしていった。
現代日本では被害者より加害者の人権が優先される。
亡くなった方や被害にあった人々は実名報道されるが、加害者の名前は通名でもいいし、時には報道されない。
キリスト教における信者のような扱いを被害者はされる。
善き行いをするが神はさらなる試練を課す。
しかし信仰のない民は神と信者の善に浴することができる。
今の犯罪者にも同じようなことがおこっているように思う。
そもそも生きていて犯罪をしようと考えること自体が異常である。
偶然の重なりから犯罪者となった人は裁判で情状酌量の余地があってしかるべきだ。
しかしそうでないなら本来の法の考え方に立ち戻るべきだと思う。
法は国家の治安維持と体制の保護のためにある。
犯罪者というのは治安を乱し、権威を傷つけた忌むべき輩である。
当然納得のある方法で処罰する必要がある。
元々、法がある時点で犯罪者は見せしめにされるのだ。
逆に明確な形で処罰しなければ体制の権威に傷がつくことになる。
蓄積すれば体制の転覆という事態にもなりかねない。
古来より犯罪者の処遇が過酷であったのは体制が盤石でなかった証でもある。
しかし現代の国家はよほどのことがない限り、転覆することはない。
そのため犯罪者にやさしくなったとも言える。
とはいえ治安の悪化はコストの増大にも繋がり、財政面からの要請で犯罪率の低下等が言われている。
ならば罪を犯したくないという心境にさせればいい。
「パノプティコン - Wikipedia」の監獄を作るのが簡単である。
囚人を孤立させ、常に監視されている状態に置くことで囚人を極限状態まで追い詰める。
その上でときたま面接官と面談を行い、己の犯した罪についてだけ話す。
目的なのは囚人の更生よりも苦痛を与えることで犯罪の抑止を心に刻みつけることにある。
二度と監獄に戻らないように心理状態を追い詰めることで再犯の余地を小さくする。
そもそも囚人が犯罪を犯すのは環境的要素が大きく、反省させ更生させるという事自体が難しい。
また犯罪者自身がそう思っていれば効果は薄い。
なぜなら環境的要素が大きければ人は誰かのせいにしたがるものである。
現状の刑務所ではぬるいのでより精神的に苦痛を与える方法であれば誰も入りたいと思わなくなる。
出所後は社会に復帰するのではなく、更生施設や程度によっては通いの施設に入る。
職業訓練等を行いながら社会を再勉強して、就職先をみつける。
仕事がなければ再犯率も高くなるのは目に見えている。
仕事を与えることまでして初めて囚人は一社会人としてなんとかスタートラインに立てると思う。
精神を追い詰める方向へ向かうため、何十年も幽閉しておく必要がない。
人は孤独でなにもない空間に長くいることはできない。
回転率も良くなり、財政面上でも有益である。
ただ一点犯罪者の人権に目をつぶればという欠点はある。
とはいえ人の人権を踏みにじったヤツの人権を養護すること自体、ずいぶんと歪んだ思考の持ち主だと思う。
こどものネットといじめについて思う
以前にも書いた気がするが気にせずに書こうと思う。
学校にとどまらず社会というのは一種の監獄であるというのはフーコーの言であった。
特に子供にネット環境を与えてから監獄の環境は劣化している。
インターネットというのは世界を小さくした。
情報が瞬時にやり取りされ、今までは写真や映像というのも物体に変換され郵送されていた。
しかしご承知の通り今では写真も映像もケーブルによって電気信号へ変換されることで時間的制約から開放された。
昔は公園にエロ本が落ちていて、こっそり家に持ち帰るという楽しみはなくなった。
自宅にいながらネットからいくらでもダウンロードできる時代へと変化した。
ネットへつながる子どもたちは昔では知りえないたくさんの情報にふれることができるようになった。
適応できれば素晴らしい人材が多く排出されることになる。
なぜなら学校でわからないことでもネットなら詳しく解説してくれるサイトはいくつもある。
塾に行かなくてもネットでも塾に通うことができる。
しかしこういったことは昔から通信教育や放送大学等いくつもあった。
今こどもたちは家に帰っても友達とつながっていなければならないのだ。
子供というのは自我の構築途中であり、自他の境界線が曖昧な存在である。
そんな年頃の子供が四六時中誰かと繋がり続けているのは多様性の喪失と自我の構築を途中で放棄することになる。
そのため他者とつながることに対する抵抗感と免疫が低下することになる。
よってグループ内での排除されることに対する心理的なダメージと喪失感は以前の比ではなくなる。
なぜなら被害者にとって常に繋がり続けているグループからの排除は自己の喪失と同義語になりかねない危険性をはらんでいるからだ。
だからといってネット環境を与えないというのは極端な対策でもある。
自分の話になってしまうが、子供の頃カードゲームや携帯といったものを買えないことがあった。
親が貧しいからというのがすべての原因でもあった。
友達が楽しそうにしているのをいつも横で眺めていることしかできなかった。
それでいじめにはあわなかったが、ずいぶん寂しい思いをしてきた。
自分には同年代が共有している話題に入っていけない。
アニメもゲームもいつも遅れて情報が入ってくることから乗り遅れたり、買ってもらえないためわからないまま時が過ぎ去っていった。
そういう経験が自我の形成に大いに役に立ったのかもしれない。
しかしそれは寂しい記憶であり、自分と他者の相違というものが生まれた家庭によって成り立つというのも本来違う。
またその結果として今ではゲームやネットに依存し、高校、大学とアニメ漬けの毎日を過ごすことになった。
ネット環境を与える代わりに親がその危険性と逃げ道を教える必要がある。
古来のやり方で毎日学校で何があったのを話してもらうことで、ときたま携帯を一緒に見ながら友達とのやりとりをチェックしたりできる。
またネットの危険性については親がブロックを強制的にするだけではなく、子供にも何故そうしたかを説明する必要がある。
現代においてブロック解除法なぞ検索すればいくらでも出てくる。
子供は駄目と言われたら突破したくなるものだ。
特にネットを与えるときと話題にするときは大人として扱うことが必要となる。
大人は自制心があることを示すことができれば、子供も大人と同じようにしようとするだろう。
自分を一人前として扱ってもらえれば子供も期待に答えようとするだろう。
現代社会では共働きが一般的である以上、大人が目に届かないところが多くなる。
そのためモラトリアムの期間は延びたが、子供は昔より早く大人になる必要があるのかもしれない。
腕時計について思う
30万円〜50万円位の腕時計がほしいと思って店を巡ったりしていた。
転職後景気づけに5万円位の腕時計から卒業しようと思っての行動だった。
バーバリーでもいいのだが、いかせん時計屋ではないのでブランド力にかけている。
銀座や新宿の時計店に行ったりした。
ランクとしてはミドルレンジらしい。
良いものは100万円超えるのが高級腕時計の始まりらしい。
とはいえそこまで出す気はないので色々見た。
ロレックスやオメガというのはありきたりだし、何より全てが色違いの同一品にしか見えない。
初め目についたのはユンハンスである。
デザイン性がいいのが目についた。
価格は25万円位のレンジ帯の代物だった。
新宿のBEST本店でみて店員にみせてと言ってみた。
腕時計のことは何にも知らない人間に丁寧説明してくれた。
店員曰く本来はもっと低価格帯での製造が多いメーカーらしい。
その会社がミドルレンジクラスの製品を作っている。
言われて気づいたし、装着して思いを強くしたが、5万円の腕時計とさほど変わらない。
盤面はシールみたいで貼り付けられている。
細部にこだわるというよりパッと見のデザインに重点をおいた代物だというのがわかった。
腕時計自体小さいものである。
当然細部までこだわっていないと目立つ商品だ。
作りが粗いのは目に引くのだ。
店員曰く低価格帯のメーカーが製造したものより高価格帯のメーカーがミドルレンジクラスの製造品のほうが細部にこだわっているとのことだ。
結局オメガを紹介された。
デザインの精密さや時計の精度についても細かい説明を受けた。
デザイン性が良くないと感じたので渋っていたら上の階に案内された。
80-100万円するミドルレンジでも高級品のコーナーである。
いくつか紹介されたが、値段に合っているかはともかくとして製品の精密さやデザインは更に凝っていた。
そこまで高価なものになると仕事で着用できなくなる。
休日のためだけにつけるのには高価すぎるためもあって断念した。
色々ネットで探していたらグランドセイコーが目についた。
とはいえデザインがおっさん臭いというイメージもあった。
しかし最近はケースサイズも大きくなり、40mmも登場したので現物を見に行くことにした。
ヨドバシカメラや百貨店をいくつかまわってみてみた。
まず見ていると店員がすぐに話しかけてくる。
時計としての精密性やスプリングドライブという他社にない機能を搭載したシリーズの紹介をされた。
製品を手に取りはめてみてくださいと言われ今にも買わなければならない雰囲気を醸し出す。
値段はスプリングドライブで30-60位で、他は20-40位のミドルレンジ価格である。
しかし店員の買えかえ攻勢にへきへきしていた自分は買わなかった。
腕時計を買わせようとするとき店員は
1.時計屋やその腕時計の歴史
2.腕時計のデザイン性
3.腕時計の時を刻む正確性
この3つを中心として話題を展開する。
しかし自分のように自らの感性の赴くままに買うかを決めようかと思っている人間に歴史は関係ない。
歴史を作るために購入するのに歴史の講釈を垂れられる必要ない。
デザイン性もメーカー特色があるので歴史をしればより面白いのだろう。
とはいえ直感で駄目だと思えばない。
また時を刻む正確性という売りは機械式時計にとって矛盾を抱えている。
なぜならデジタル腕時計には絶対に敵わないのだ。
またG-shockのような時計は自動調整機能やソーラー充電も可能である。
コストパフォーマンスを考えれば機械式腕時計に勝ち目はない。
非言語性を用いて販売を展開することも必要となる。
その点車よく作られている。
スバルのレガシィを購入したときはスバルの歴史もレガシィの歴史も知らなかった。
しかし試乗したときに電撃が走る。
確かに機能性や運転性も考慮はした。
しかし乗ったときにそんなことは考えない。
如何に自分と一体になるかという運転性やデザインのことしか考えなかった。
今どきリッター10km程度で本気で走ると6kmまで低下する燃費の悪い車に乗るのは控え目に言っても頭が悪い。
腕時計にはそういった感覚がなかった。
自分がまだ着けるには相応しくないのかもしれない。
また腕時計に自分を合わせるという考え方もある。
しかし誰かに決められた道を進むのは面白くない。
ともに歩める腕時計がほしいと思っている。
米朝首脳会談後について思うこと
テレビ等では歴史的瞬間とか騒いでいるが、初回の顔合わせ以上の意味合いは特にない。
締結した内容は北朝鮮にとって損でもない。
今後事務次官級等、下級会談で詳細を煮詰めなければなんにもならない。
大事なことは核廃絶が確認できない限り、アメリカの勝利はないことだ。
北朝鮮との問題で窮地に立っているのは他ならぬアメリカにほかならない。
アメリカは多数の同盟国をもっている国家である。
もしアメリカが北朝鮮の核廃絶を達成できない場合、同盟国に対する核脅威についてアメリカは力になってくれないという見方となる。
この場合別の国への依存度を高めたり、自分たちの同盟状態を強化したりとアメリカからさらに離れる傾向が顕著となる。
米ソ冷戦以降の米国一極体制の節目が近づいているのかもしれない。
この問題で一番特をするのは中国である。
アメリカが交渉に失敗すれば、同盟国の離反を受け入れる素地ができる。
また朝鮮半島の非核化が成功したとすれば、中国にとっては制御がきくかわからない核保有国が一つ減ることになる。
北朝鮮という緩衝地帯がある限り中国にとってはどっちに転んでも利益となる。
アメリカにとって北朝鮮との交渉において重要なことは圧力をかけ続けることとなる。
なぜなら合意は信頼ではなく、圧力によって行われるものだからだ。
またトランプ大統領は交渉決裂で戦争になると言ったこともある。
これは下手をするとオバマ元大統領の二の舞になりかねない。
当時オバマ大統領はシリアとロシアに対してデッドラインを提示した。
しかし後日履行しなかったため、内戦がさらに激しく拡大した。
周辺国にも拡散し、イエメンでの内戦にアラブ連合が加勢する事態等の遠因ともなっている。
そう考えるとアメリカが交渉に失敗したとしても戦争に突入すれば周辺国の離反も防げるだろう。
しかし現状アメリはイラクとアフガンの傷跡、アフガンでは未だに撤退できていない状況が続いている。
また核が米国に到達する状態であればアメリカとしても軽々に戦争へ踏み切ることはできない。
アメリカは分の悪い賭けに出た。
しかし日本にとってみれば賭けに勝利してほしいと願っている。
だが、本来であれば北朝鮮に圧力をかけ続けるのは日本の役目である。
日本は本件に関して、北朝鮮に影響を及ぼす材料がない。
なのでアメリカが北朝鮮と交渉中、決裂した場合日本は戦争すると脅すことでアメリカの援護ができる。
俺はいいけど日本が黙っていないということだってできる。
また交渉が北朝鮮有利になったとき、アメリカは日本と共同して戦争するとふっかけることもできる。
外交とは血を流さない戦争である。
今の日本は何も理解していない。
登録者数と評価数について思う
登録者数と評価数が高いほど売れている。
ブロガーにしろyoutuberにしろ世の中に溢れている多くの場面で顕著だ。
昔から企業にしろ、自営業者にしろ如何に多くの人に知ってもらうかが課題であった。
そのため広告代理店や大手マスメディアは儲けを多くした。
しかし現代ではさらに過激になり、自己満足を得る手段であったり、承認欲求を満たすといったことまで利用されている。
資本主義経済というのは人間の本能にある欲求を適度に利用しながら発展させる。
その点登録者数や評価数を公開してランキング付したりしているのは頭がいいと思う。
このブログは月に100~200アクセスほどされている。
登録者数も6人になっている。
自分としては素晴らしい数字だと思っている。
最初は0なのだから大進歩である。
とはいえ他の人からみれば取るに足らない数字なのだろう。
カッコよくスターリンの名言を引っ張り出すと、
「一人の人間の死は悲劇だが、数百万人の死は統計上の数字でしかない。」
同じように初期のブロガー等は自分は評価のためにやっているのではないという。
しかしいつからか登録者数ありがとうから始まり、登録者数や評価数を公表したり、広告収入まで打ち明けるようになる。
いつからか多くの人は数字として処理されるようになり、アンチの存在は数や収入を下げる要素として排除したがる。
中にはそうでない清廉潔白のような人もいるだろう。
しかしこれだけネットは普遍である環境下では誰しもがどこかで発信している。
当然そういう人もいるだろう。
登録者や評価を気にし、さらに多くを求める様は醜悪でもある。
日本人は特にお金を見せびらかす人を嫌悪する傾向があると思う。
眼の前で札束を団扇にして仰いでいたら腹が立つだろう。
しかしネットで広告収入がいくらあったとかという話は批判されない。
そして公開している本人も無邪気だ。
欲にまみれ、欲に溺れる人間の醜悪さを垣間見る。
自分の話をすればそもそも見てもらおうと思って書いていない。
ブログに書いているのは日記のようなものだと思っている。
人が読んだら見にくいだろうし、構成も思いつきのままなので一貫性に乏しい。
はっきり言って見ていただくには失礼で不親切な設計でもある。
やっと最近自分の更新頻度が5日に一回ペースくらいがちょうどいいということに気づいた。
そういうスタンスで書いているため評価や読者がつくと毎回顔がほころぶ。
自分の思考が他者から理解されると思っていない。
また理解してもらおうとする努力をしてこなかった。
そのためこのような見にくい文章でも読んでもらい、評価されるだけでも幸福だと思う。
評価を気にしたりすることは人間でいる以上は避けることができない。
しかしそのことに囚われ、自分の思考に影響を及ぼしたとき、その媒体は死を迎える。
その人の面白さや思考性といったものが一般化してしまい陳腐化するからだ。
他人に媚びるようになり、数字で物事を判断するようになるのは愚かしいことだ。
すべてが以前と逆転し、評価も下がり、登録者数も減少を始める。
その囚われを断ち切らない以上どうにもならなくなる。
特にネットで生計を立てている人ほど、禅をやったほうがいいと思う。
雑念を払い、何より欲を見つめることが大事だ。
パラドシカルロジックであるが、欲を出さず自分を表現すれば評価等があがる。
だってその人がみたいから皆が登録しているのだから。
また纏まらないが、ネットでの評価や登録者数について最近特に目にすることが多くなった。
またそれに合わせて収入の依存をしている人も多くなった気がする。
しかし数を気にするほど数が減っていくだろう。
結局の所今の自分のような状態が最も幸せなんだと思う。
児童虐待について思う
虐待で子供が死亡するたびにその悲惨性を喧伝する。
か弱い子供という存在を力の強い大人が虐待するという構図はわかりやすい。
昔話にもよく見られるほど昔から繰り返し使われた。
今回も結愛ちゃんのことでメッセージまで出てきたため親を標的としたバッシングがおきている。
しかし逆言えば親という悪を叩いて終わるといういつものパターンが繰り返される。
結局のところ今回もありきたりな結論でメディアは興味を失うだろう。
NHKの番組バリバラにて感動ポルノが取り上げられた。
障害者を困難な状態から懸命に生きていることをとりあげるメディアや感動する人を嘲笑している。
ようはポルノのように障害者を消費しているのだ。
今回は悲劇ポルノになる。
結論はかわいそうであり、このようなことを繰り返してはいけませんという結論で終わるからだ。
毎年飽きもせずに原爆ドーム前で平和の尊さと悲劇を繰り返しませんと言っているのと何ら変わりない。
自分はそういう報道の在り方を気持ち悪いと思った。
子供のことを考えているとは思えない。
悲劇的な情報に接して私こんなに可愛そうと思って浸っているようにしか見えない。
虐待問題はこの記事でも取り上げられていた。
結愛ちゃん虐待死「ひどい親」と批判しても事件は減らない 「評価」に追い詰められる親たち (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
結局のところ加害者である親に対する行政の介入度合いが低いことと、周囲に助けを求められない状態にあることが問題となっている。
良い親というのは誰しもがなりたいと思いつつ、誰しもができないものだ。
いい親という理想像が独り歩きしているために余計にプレッシャーとなっている。
また日本の教育は未だに古臭く、手間をかけることが愛情だという倒錯した教育方針であることも親を追い込んでいる。
教育者が昭和時代の理想的な家族像を前提とした4人家族で父親が働きに出て母親は専業主婦であるという構図は現在当てはまる家庭はほとんどない。
この前提を共働きや片親に適応することも親を追い込んでいる原因の一つだ。
親に必要なのは時間と余裕である。
時間があれば子供と触れ合う時間が多くなり、余裕があれば誰かに相談しようとする頭も働く。
特に余裕がなくなったとき人は通常なら決してしないことも平気でするようになってしまう。
親を追い込まない環境を社会が形成していかない限りこういったことは続くだろう。
そして少子高齢化社会であるため子供に資源は投入されないだろう。
そして昭和時代の古臭い教育方針は継続されるだろう。
なぜなら教育に携わり意見を言う連中が年寄りばかりだからだ。
先のない老人を養うためと娯楽提供のために若者が犠牲となるのだ。
忙しくて婚活する余裕がないことに思う
婚活をしている。
毎月不定期にお見合いしたり、お付き合いをしたり、ごめんなさいとなる。
しかし他にも仕事が多忙であったり、資格の勉強、趣味のネットや読書など忙しい。
仕事は転職して半年近くになるから少しは余裕があるが、日々いろんな仕事を任されるようになっているので負荷としては変わらない。
資格の勉強は電験三種を受験するのに数学から勉強をしなければならない状況でもある。
9月の受験が終われば簡単だと思うが、危険物4乙種の受験をしようと思っている。
そしてあいも変わらず軍事や外交等の情報を毎日収集している。
また最近はeスポーツで試合を見るのも趣味になりつつある。
当然ゲームもやりたいが時間がとれずにいる。
そこでふと思った。
忙しいから恋愛や婚活ができないのでは?
婚活サイトでは様々なことをに述べている。
大体相手を一人ひとりきちんと向き合いましょうという結論になる。
だが娯楽や趣味をいくらでも見いだせるこの世の中で恋愛や結婚を考えること自体がかなりの労力を必要としている。
対人関係についてのゴタゴタが好きな人であれば問題なく労力を注ぐことができる。
しかしそうでない人にしてみればその労力が過去に比べてより高いものになったように思う。
ここに生物の存在意義は全て子孫を残すためにあるという命題がある。
いつの時代でも本能として求められている。
また欲求として誰しもが持っている。
しかし社会が発展する過程において人間は社会性を発達させた。
このことは人間の本能を押さえつけて発達させている。
近年、恋愛を楽しんだり、不倫に興じている人に対する風当たりがより厳しい気がする。
この現象があるとすれば社会性を極度に発達させたことにより、人間の本能を見たくないという感性の発露かもしれない。
ネットの登場により人間の異常行動や本能というものがより身近でみることができるようになった。
そのため恋愛や結婚について知ったような気になれる。
そして結末についても知ったような気になれる。
また一方では特に子供がいない家庭ではの夫婦が同期に比べて出世したりすることがある。
歴史をみても子供がいない家庭をもった研究者の方が研究成果を上げるという話もある。
現在では沢山の娯楽や趣味があり、出世にエネルギーを使わない人がそういった部分で発散できる環境がある。
つらつらと述べたが、社会性が発達した社会では恋愛や結婚ができる環境そのものが小さくなっている。
もちろん逃げているだけだという指摘もあるだろう。
だが本能をおし殺すことになれた人たちからみれば、本能を発露した人を野獣のようにみえる。
そのため逃げているという発言は、できないものがしさであったり、野蛮な連中が何を言っているということになる。
その裏側には自尊心を満たすために自分の社会性がいかにあるかを証明しようとするだろう。
実際モテるような人は野生的な要素が必要とされる。
持っていない人は男であればなよなよしているし、女であれば美人でない限り面倒臭そうという印象を与える。
そのため両者にはさらなる差が生まれることとなる。
よって忙しくても婚活する余裕がないというのはいいわけにすぎなことになる。
実際何股もしている人がいるわけだし、多くの恋愛をしている人が暇人ばかりでもない。
効率的に相手を引き込む状況を構築することがモテる人なんだろうと思う。
現代はあまりにも社会性に特化して、野生性を放棄することを求められることが多い。
そのために人としての魅力、男や女としての魅力に外目から見てかけた人が多いのだろう。
また社会性に特化してしまうこととして、人に対する嗅覚やいわゆる人を見る目がなくなっているように思う。
自分と相手は同じような人、相手にも社会性を無意識で求めてしまうため危険な人というのも見分けがつきにくい目になってしまっているのかもしれない。
だからこそ野生性をもったモテる人になれれば簡単にことが運ぶあるいみいい時代になったともいえる。
参入者が少ないのだから実入りは多いだろう。
とはいえ変わるためには苦労をすることには変わりないし、苦労する余裕もないんだけどね。