児童虐待について思う
虐待で子供が死亡するたびにその悲惨性を喧伝する。
か弱い子供という存在を力の強い大人が虐待するという構図はわかりやすい。
昔話にもよく見られるほど昔から繰り返し使われた。
今回も結愛ちゃんのことでメッセージまで出てきたため親を標的としたバッシングがおきている。
しかし逆言えば親という悪を叩いて終わるといういつものパターンが繰り返される。
結局のところ今回もありきたりな結論でメディアは興味を失うだろう。
NHKの番組バリバラにて感動ポルノが取り上げられた。
障害者を困難な状態から懸命に生きていることをとりあげるメディアや感動する人を嘲笑している。
ようはポルノのように障害者を消費しているのだ。
今回は悲劇ポルノになる。
結論はかわいそうであり、このようなことを繰り返してはいけませんという結論で終わるからだ。
毎年飽きもせずに原爆ドーム前で平和の尊さと悲劇を繰り返しませんと言っているのと何ら変わりない。
自分はそういう報道の在り方を気持ち悪いと思った。
子供のことを考えているとは思えない。
悲劇的な情報に接して私こんなに可愛そうと思って浸っているようにしか見えない。
虐待問題はこの記事でも取り上げられていた。
結愛ちゃん虐待死「ひどい親」と批判しても事件は減らない 「評価」に追い詰められる親たち (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
結局のところ加害者である親に対する行政の介入度合いが低いことと、周囲に助けを求められない状態にあることが問題となっている。
良い親というのは誰しもがなりたいと思いつつ、誰しもができないものだ。
いい親という理想像が独り歩きしているために余計にプレッシャーとなっている。
また日本の教育は未だに古臭く、手間をかけることが愛情だという倒錯した教育方針であることも親を追い込んでいる。
教育者が昭和時代の理想的な家族像を前提とした4人家族で父親が働きに出て母親は専業主婦であるという構図は現在当てはまる家庭はほとんどない。
この前提を共働きや片親に適応することも親を追い込んでいる原因の一つだ。
親に必要なのは時間と余裕である。
時間があれば子供と触れ合う時間が多くなり、余裕があれば誰かに相談しようとする頭も働く。
特に余裕がなくなったとき人は通常なら決してしないことも平気でするようになってしまう。
親を追い込まない環境を社会が形成していかない限りこういったことは続くだろう。
そして少子高齢化社会であるため子供に資源は投入されないだろう。
そして昭和時代の古臭い教育方針は継続されるだろう。
なぜなら教育に携わり意見を言う連中が年寄りばかりだからだ。
先のない老人を養うためと娯楽提供のために若者が犠牲となるのだ。
忙しくて婚活する余裕がないことに思う
婚活をしている。
毎月不定期にお見合いしたり、お付き合いをしたり、ごめんなさいとなる。
しかし他にも仕事が多忙であったり、資格の勉強、趣味のネットや読書など忙しい。
仕事は転職して半年近くになるから少しは余裕があるが、日々いろんな仕事を任されるようになっているので負荷としては変わらない。
資格の勉強は電験三種を受験するのに数学から勉強をしなければならない状況でもある。
9月の受験が終われば簡単だと思うが、危険物4乙種の受験をしようと思っている。
そしてあいも変わらず軍事や外交等の情報を毎日収集している。
また最近はeスポーツで試合を見るのも趣味になりつつある。
当然ゲームもやりたいが時間がとれずにいる。
そこでふと思った。
忙しいから恋愛や婚活ができないのでは?
婚活サイトでは様々なことをに述べている。
大体相手を一人ひとりきちんと向き合いましょうという結論になる。
だが娯楽や趣味をいくらでも見いだせるこの世の中で恋愛や結婚を考えること自体がかなりの労力を必要としている。
対人関係についてのゴタゴタが好きな人であれば問題なく労力を注ぐことができる。
しかしそうでない人にしてみればその労力が過去に比べてより高いものになったように思う。
ここに生物の存在意義は全て子孫を残すためにあるという命題がある。
いつの時代でも本能として求められている。
また欲求として誰しもが持っている。
しかし社会が発展する過程において人間は社会性を発達させた。
このことは人間の本能を押さえつけて発達させている。
近年、恋愛を楽しんだり、不倫に興じている人に対する風当たりがより厳しい気がする。
この現象があるとすれば社会性を極度に発達させたことにより、人間の本能を見たくないという感性の発露かもしれない。
ネットの登場により人間の異常行動や本能というものがより身近でみることができるようになった。
そのため恋愛や結婚について知ったような気になれる。
そして結末についても知ったような気になれる。
また一方では特に子供がいない家庭ではの夫婦が同期に比べて出世したりすることがある。
歴史をみても子供がいない家庭をもった研究者の方が研究成果を上げるという話もある。
現在では沢山の娯楽や趣味があり、出世にエネルギーを使わない人がそういった部分で発散できる環境がある。
つらつらと述べたが、社会性が発達した社会では恋愛や結婚ができる環境そのものが小さくなっている。
もちろん逃げているだけだという指摘もあるだろう。
だが本能をおし殺すことになれた人たちからみれば、本能を発露した人を野獣のようにみえる。
そのため逃げているという発言は、できないものがしさであったり、野蛮な連中が何を言っているということになる。
その裏側には自尊心を満たすために自分の社会性がいかにあるかを証明しようとするだろう。
実際モテるような人は野生的な要素が必要とされる。
持っていない人は男であればなよなよしているし、女であれば美人でない限り面倒臭そうという印象を与える。
そのため両者にはさらなる差が生まれることとなる。
よって忙しくても婚活する余裕がないというのはいいわけにすぎなことになる。
実際何股もしている人がいるわけだし、多くの恋愛をしている人が暇人ばかりでもない。
効率的に相手を引き込む状況を構築することがモテる人なんだろうと思う。
現代はあまりにも社会性に特化して、野生性を放棄することを求められることが多い。
そのために人としての魅力、男や女としての魅力に外目から見てかけた人が多いのだろう。
また社会性に特化してしまうこととして、人に対する嗅覚やいわゆる人を見る目がなくなっているように思う。
自分と相手は同じような人、相手にも社会性を無意識で求めてしまうため危険な人というのも見分けがつきにくい目になってしまっているのかもしれない。
だからこそ野生性をもったモテる人になれれば簡単にことが運ぶあるいみいい時代になったともいえる。
参入者が少ないのだから実入りは多いだろう。
とはいえ変わるためには苦労をすることには変わりないし、苦労する余裕もないんだけどね。
物語の非言語性について思う
銀河英雄伝説の新作を毎週見ている。
旧作セットも購入して何度も見ている。
本編全110話とOVAはボリュームとしてもかなり重い。
新作を見ていて思うのはいろんな話がトントン拍子に進んでいることだ。
基本的な構成は変化させていないし、艦隊戦や戦術についてはよりよくなっている。
しかしその分ストーリー展開がサクサク進んでいる。
だから感じるのはせわしなさである。
物語にもスピードが求められる時代になったのかもしれない。
ラノベが流行ったり、アニメにしてもサクサク展開するような構成が多くなったような気がする。
読書ではよく行間を読むという表現がある。
非言語性を含ませることで物語に味わいをもたせる手法でもある。
近年そういった行間を読ませるような物語が減った気がするのは自分が年をとったせいなのかもしれない。
2000年台初頭エヴァとかが流行っていた時代に『lain』というアニメがあった。
ネットが台頭してきた頃の作品であり、当時流行っていたネットにつながることで人格がどのように変化するかや、ネットに人格を取り込んでも自我が保てるかといった議論があった。
lainでは作画や音を聞かせるシーンが多い。
キャラクターの会話も少なく、独白が多い。
そのため視聴者は作品にのめり込みやすくなる。
またポプテピピックで紹介されていたが、『柳生一族の陰謀』に出演していた成田三樹夫さんの動画も行間を読ませている。
動画だけなのでストーリーは知らないが、それでも視聴者を引き込ませる演技力は素晴らしいものがある。
演技は古臭い技法ではあるが、それを差し引いてもあまりある演技力は感嘆の念をいだかせる。
歌舞伎ほどのっそりしていないがテンポよく、だけど含みをもたせた演技だ。
時代が加速しているならば今のテンポで育った人は逆に昔の作品は歌舞伎みたいにのっそりしているように感じるのかもしれない。
また行間を読むほど暇ではないのかもしれない。
簡単に得れる刺激が多いことがたくさんあり、ソシャゲ等に費やす時間が多いのも一因かもしれない。
またはただ単にこういった作品を知らないだけかもしれない。
情報や刺激が簡単に手に入る時代だからこそ、行間を読むようなゆとりや精神的な安定さがほしいところでもある。
また行間を読ませるような素晴らしい作品が注目をあびるような構造も必要だと思う。
特にアニメなどは一昔前の大量生産・大量消費になっている。
行き着く先は同じようなものを各社作るしかできなくなる。
家電等で海外に追い抜かれたようにアニメ等でもなりかねないとも思う。
非言語性を生み出す土壌はうちに籠もることだ。
人とあっていても話すのではなく、聞くことだ。
話すことで含みやタメといったものが一緒に放出される。
中にはいくらでも放出しても大丈夫な人がいるが、多くの人は無理だろう。
人間としての深みや精神的な重層感といったものは非言語性に依存している。
また人は話せば程度が悟られてしまう。
口数が少なければ自分をより大きく見せれる効果もある。
まぁ小手先の手段で多くは生み出せはしないけど。
指定ごみ袋について思う
コンビニで買物をしていると指定ごみ袋が棚に置かれていた。
市境になると2つや3つの市の指定ごみ袋をおいているところもあるらしい。
半透明であったり、黄色やピンクなどわかりやすく表示されている。
価格は普通のゴミ袋とは比較にならないほど高い。
建前としては高いゴミ袋代を設定することでごみ排出量の削減を行いつつ、ごみ処理コストも徴収するということだろう。
非常に市民をバカにしていると思う。
これは想像であるが、癒着と談合にまみれた制度だ。
指定ごみ袋を製造している会社は1社、もしくは2社となっている。
当然指定業者であり、それ以外の会社の参入はできない状態となっている。
業者は市からコンスタントに仕事をもらえてハッピーだ。
だから生産性やコスト性は度外視になる。
なぜなら指定なのだから何をしても価格転嫁可能だ。
表向きは袋のデザイン性や表示のためといえる。
実際は荒稼ぎをしているだけだ。
そもそもビニール袋を製造している業者はそれほど多くない。
当然指定業者になるにあたって談合があっただろう。
なぜなら狭い業界であるのだから皆顔見知りなのは当然である。
指定業者となれば市民から補填されるのだからいい。
指定業者から漏れたとしてもその企業の仕事の一部を肩代わりするなどやりようはいくらでもある。
行政にしてみれば指定ごみ袋を導入することで税収についても大幅にアップされる。
すでに市民税や消費税等を徴収している上に、指定ごみ袋代が追徴されているのだから当然である。
こういう話をすると大抵ごみ処理コストが出てくる。
しかしゴミを焼却処分すれば電気や温水ができる。
焼却場は電気や温水を売って儲けてもいる。
最終処分場等のコスト話も出てくる。
しかし本来市民税等の中から負担すべき話を市民に押し付けている。
行政は論点を変えているのだ。
指定ごみ袋を作る前に市民税を上げればはるかに低コストで賄うことができる。
指定ごみ袋をわざわざ制作する必要もないのだから。
指定ごみ袋を制作することで儲けたいやつがいると思われても当然だと思う。
癒着や談合があるのは当然だと思う。
そもそもゴミは燃やすのだから指定ごみ袋という存在自体が矛盾に満ちている。
あえていうがプラスティック等のゴミも大抵の自治体では発電するために燃やしている。
「燃やしているけど発電しているからリサイクルしてま~す」ということらしい。
実際は発電効率を良くするために可燃の特に生ゴミ等の分別は厳しくしている現状がある。
話がそれたが燃やすためのゴミ袋を制作し、高値で販売をして利益を上げるという行為自体道義上いかがなものかと思う。
しかも特定企業を使ってやるのは、独占禁止法を無視した行為だと思う。
コンビニ等ではビニール袋がついてくるし、多くの店では未だにビニール袋をつけている。
自然と貯まるビニール袋をゴミ袋として使用すればこれこそリサイクルとなる。
極端なことをいえばビニール袋でなくともいい。
紙袋やクリーニングに出した時についてくるビニールを縛って使ってもいい。
ようは袋になるものは何でもいいのだ。
もちろん耐久性はほしいところだが、収集車に投入されるまでの耐久性で十分だ。
またコストの大きなものにゴミ回収業者が挙げられる。
ゴミ回収業者も指定されている。
これは行政が地方の企業を存続させるための措置として行われている。
しかし多くは小さい業者で生産性が低い。
マンパワーを持たないし、小さい業者が集まれば当然それぞれに必要経費を払う必要が生じる。
生産性が低いのにコストは膨らんでいくのだ。
この21世紀のデジタル社会で、未だにゴミ収集場を運転手の感覚で回って回収するという非効率性の極みを行っている。
結構前に聞いた話で、ゴミ収集場を地図上にマッピングしていくと自動的に集配ルートを表示してくれるソフトがあると聞いた。
すでにJA等で配送するために導入されている。
たしかサイボウズだったと思う。
またゴミ収集車にセンサーをつければ各ゴミ収集場のゴミの量もデータ管理できる。
そうすれば大体どの程度回れば満杯になるかが自動的にわかる。
そういった情報が蓄積していけば収集コストの低減につながる。
またゴミの量が多い収集場が判明するため、啓蒙活動等を集中的に行うことが可能となる。
ゴミや産廃等にはやのつく怖い人達がたくさん関与しているというはなしがある。
与太話かもしれないがそんな話が出るくらい保守的な業界のひとつなんだろうと思う。
また多くの利権が絡み合っている。
改善する余地は非常に多いと思う。
まぁ自分のところは指定ごみ袋でないからいいけどね。
日大の対応をみて思う
日大が炎上しているので便乗記事でも書こうかと思った。
会見の対応等については散々他のところで書かれているので触れない。
自分この問題で思ったことをを書こうと思う。
そもそも自分はアメフトに関わらずスポーツが嫌いである。
eスポーツ以外のというのが適切な表現だが汗臭さがあるものが嫌いだ。
自分の高校はスポーツを売りにしていた高校だった。
専門高校ではなかったので自分は普通科にいた。
しかし学校行事ではスポーツにまつわる行事がいくつもあり、スポーツができるやつがいきがっていた。
スポーツマンシップということを大会で宣誓する。
しかし宣誓しなくてはならないほど非常識なことが行われていることの証でもある。
スポーツが苦手な生徒には暴言やボールの投げつけ等当たり前でもあった。
勝つことのみ考えており本来の楽しむことや協調性を育むという教育目標は放棄されていた。
人間の勝つことに対する醜態を間近で観察した。
他者への敬意や尊敬は踏みにじられスポーツができるという絶対軸によって女子からモテたりするという評価がくだされる。
スポーツができない人間は人でないのだ。
キモい生き物であり、見ているだけで不快という代物にすぎない。
スポーツの不祥事は日本の体育教育の実態が表面化したものにすぎない。
驚くに値しないし、普通のことである。
他者を如何にして踏みつけ自尊心を満たすかしか考えられない連中に社会常識や道徳心を説いたところで無意味である。
なぜならそれすらも彼らは利用するからだ。
そしてスポーツができるか否でしか評価基準がないため堂々としている。
当然である。
自分たちはスポーツができるという高等国民であるという自負があるからだ。
今回の事件の炎上拡大しているのはそんな自尊心が表面化したものに過ぎないと思った。
HOOTERSを利用して思ったこと
フーターズを利用して思ったことをつらつら書いてみる。
思ったことはメイドカフェのアメリカ番である。
日本だとアニメ等の切り口で飲食店でも客単価を出せる。
アメリカでは健康的なナイスバディーな女性という幻想を具現化させた店として成功したのだろう。
アメリカ特有のポジティブさを全面に出している。
日本では格安のキャバクラ的な印象をもった。
違うのは指名できないのと、自分から話しかけるという程度の違いだろう。
意外にも女性客もチラチラいたところだろう。
メディアでも露出があるので試しに入ってみたような印象があった。
自分は人が少ない時間帯に入店したがフーターズの衣装を着た女性に出迎えられた。
外人白人客と日本人客が半数ずついるような状況であった。
フーターズバーガーとバドワイザーを注文して店内を観察したが店員の露出が高いのと店内がアメリカチックな配色センスのないレンガ調の内装以外はメイドカフェと遜色ないと思った。
途中から6人くらいのインキャが入ってきてキャバクラ色が出てきた。
話しかければ愛想よく答える様が、キャバクラ嬢特有のタメ口と相まって一層そうみえた。
食事は値段の割には量が多かったが半分位ポテトだったので量だけである。
バーガーも雰囲気でなんとなく美味しく食べれた程度の代物にすぎない。
こういった形態の店舗は確かに日本から発祥するのは難しい。
日本の店舗との違いは行間を読むような曖昧さや非日常設定が求められる。
キャラになりきるというような非日常性というものを求めるような傾向があるような気がする。
内と外でいう外としての店舗の位置づけとなる。
アメリカでは外ではとにかくポジティブでなければならないという脅迫観念があるように思う。
そのため店員もポジティブに振る舞い、男は必ず女性にちょっかいを出さなくてはならないという観念が具現化したような店舗構成となっている。
日常でそうでなければならないというような理想をここでも求めらるような堅苦しさを感じた。
こういった形態の店が爆発的に増えないのは日本人特有のネガティブさというか、上記で述べたような店舗構成との差異に現れている。
よくいえばシャイであるが、店員と仲良く話せるようなフランクさがないとこの店は楽しめない。
逆に言えば大人数のときに居酒屋ではしゃげるようなタイプにはいい店だと思う。
なんだかんだ思ったが、おっぱいは偉大である。
揉みほぐしたいなぁ〜
そう思いつつ会計を済ませる。
しっかりとサービス料という名のおっぱい視聴料が徴収されていた。
よくできた店である。
正社員の責任回避傾向について思う
前回の記事で思考停止した人間について書いた。
正社員でも居場所がなくなりつつあることに言及した。
しかしそれでも亡くならない傾向がある。
責任回避傾向だ。
現在自分は大手にいる。
まともな職場、まともな人間、まともな労働環境という今の所恵まれている。
大手である以上さけて通れなこともある。
その一つが責任の所在についてだ。
すべての書類やメールがその責任を回避するために存在すると過言でないほど徹底されている。
何かしらの書類はすべて上司の承認を必要とする。
その書類もいろんなところを旅する過程でパスポートに押される入国許可印のように数人の印鑑が押されて返却される。
それから次の工程に進むことが可能となる。
メールについても必ず数人のccをつける。
何かをするにしてもすべて誰かしらの承諾や相談を必要とする。
しかしいざ問題が発生した場合、印鑑を押した人は責任を取ることはないだろう。
責任を取るのは現場担当者だけであり、その上司は重くて減給処分という扱いとなる。
特に問題となるのは複数の部署にまたがった仕事である。
誰か音頭をとる人間がいないと話が漂流船のように漂うだけとなる。
資源を浪費し成果を得られない。
そのせいでもあろう。
たまにすべての責任を人に押し付ける素晴らしい社会人に遭遇する。
ビシネスパーソンの鏡のような人物は報連相を徹底する。
そして私には責任はありませんという檻を形成するのだ。
自分は檻に入っているので安心となる。
檻の外にいる自分からみると見世物になってさぞかし気分がいいのだろうと想像するしかない。
来園者である自分はふと思う。
正社員ほどリスクを負う必要のない雇用形態はないのだと。
今の時代失敗しても最悪別に行けばいいのだ。
また昇進しても苦労が増えるだけで給与に反映されない。
しかし手っ取り早く昇進するならリスクを引き受けて成果を出しやすくなっている。
なぜなら誰もやろうとしていないのだから。