私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

東京医科大学の女子一律減点問題について思うこと

www.youtube.comニュースをみればいろんなことが言われている。

結局問題とされているのは下記2点である。

・減点を告知していないこと

・男女機会平等に反していること

大学側等医師の立場での反論

・医師の勤務体系が重労働であり体力勝負の面もあるため、女性がついていけない

・出産や育児によって仕事に穴が開く

これらが絡み合って、いろんな立場の連中が喧々諤々やっている。

問題の根本は減点そのものではなく、医師の勤務体系が労働基準法から逸脱していることにある。

医師は災害等緊急事態のときには非番でも叩き起こされる。

また普段の業務自体もいつ誰が来るかわからないため、医師を多く配置してことができない。

多く配置して、患者が来なければ損害となってしまう。

しかし消防や警察も同じだ。

非常時には非番でも招集がかかるし、火事や事件はいつ発生するかわからない。

医師だけ特別ではない。

また医師は判断する仕事だから業務過多になりやすいとも言われている。

しかし医師がする仕事量自体がもっと分担したりできる可能性を無視している。

それに判断することが仕事であるならば、過剰労働で意識が朦朧としている人間の判断を患者が享受する状況こそ問題である。

結局の所、医師の時代錯誤な労働観が反映した問題である。

 

近年AI診察等の実験が行われている。

AIが診察をするということだが、特定の分野では医師の判断より正確である結果もある。

また各病院にそれぞれあるカルテをマイナンバーに紐づけすれば一人一冊のカルテでことが足りる。

その人が今までどのような治療を受けていたかがすぐに分かる。

規制緩和をすることで、医師しかできない仕事を看護師等に割り振ることも可能となる。

必要なことは業務自体の見直しなのだ。

医師は人の体を預かる仕事であるため、責任と勉強等が他の業種よりも多い。

とはいえ過重労働すれば多くの人が救えるという考えがとんちんかんでもある。

一人でできる量など大したことがないのだから、他にいろんなことを任せることで基幹業務に集中しようという発想がでてこないのが不思議でもある。

1人でできる仕事量と2人でできる仕事量は単純に倍増ではない。

感覚的には1人でできる量は0.7位、2人でできる量は2.8位ある。

それに小売業では店長以外はパートやアルバイトで切り盛りしている店は多い。

当然発注も含めてパートやアルバイトに任せることになる。

発注をミスすれば店にとって大損害にもなる重要な仕事でもある。

しかし人件費節約のためにそうしている。

 

医師は人の命を笠に着て傲慢となっている。

医師の世界は世俗とは違うと言わんばかりだ。

一般企業だって産休に入った人の穴埋めは問題となっている。

問題が大きくなれば契約解除等の損害だって発生する。

そうならないように一般企業でも業務の見直しや余剰人員をもったりして対策している。

人の命を盾にして言い訳せずに業務の見直しを行うべきだろう。

この問題は一大学だけの問題ではなく、日本の医療全体に横たわっている労働環境問題である。

オリンピックにみる日本の息苦しさについて思う

 

www.sankei.com

サマータイムがオリンピックの間だけ成立しそうというニュースが流れた。

オリンピックのために様々な便宜が図られており、ボランティアの無償参加もその一つである。

真夏の炎天下に人々をタダで働かせるという鬼畜の所業を行う様は、平和と繁栄の祭典に相応しい。

まるで学徒出陣の様相を呈している。

もしくは1936年のベルリンオリンピックか。

 

オリンピックにとどまらず目的のために他すべてを犠牲にしたがるのは日本の国民性なのかもしれない。

ブラック企業社畜という連中も仕事や会社のために他すべてを犠牲にすることを求める。

目的が絶対善であり、他は悪とでも言わんばかりに自分自身に苦役を課す。

そして他者にも同様に求める。

会社というのは戦場であるから、常に全力を出す必要があるとのたまった人がいた。

しかしその人は知らないのだろう。

兵士は戦地にいる期間を定められているし、帰還するにしても二週間から一ヶ月ほどは帰宅できない。

帰宅できない間、基地で戦友たちと戦地のと事などについて語り合う時間を設ける。

PTSD予防と一般生活に馴染む準備期間として与えられている。

 

目的のためにすべてを犠牲にするやり方が日本の閉塞感をもたらしている元凶の一つだと思う。

会社や仕事のために家族や自分を犠牲にするというのは目的を達成できた時の快感を倍増させる。

苦しく辛いこと乗り越えるという物語があるためだ。

しかし昔とは違い今はネットによって可視化されている。

苦しいことや辛いことが表面化してしまう。

犠牲にしている時点で本当はそこまでしたくないということがわかってしまった。

かつて新聞やテレビが言えば皆が従った。

常識や社会の風潮を決めていたのは彼らだった。

しかし現在は通用しなくなっている。

かつて野党が騒げば主要メディアが取り上げ、風潮を変えることができた。

しかし主要メディアがネットに変わりつつあるが野党は変わらない。

だからこそその姿は滑稽にみえるのだ。

オリンピック関連にしろ日大の問題にしろ辛いことが素晴らしい結果をもたらすスパイスだと考えている。

そういう連中が権力にいる状況が閉塞感をもたらしている。

目的以外に目を向けない視野の狭さや井の中の蛙状態であることを自覚できない世間性のなさが目立つ。

ネットによって視野を獲得した世代はそんな「世間知らずな」連中を嫌悪する。

しかし権力をもっていないため変革できない。

 

ゆとり社会人が問題とされている。

しかしこれも目的のためにすべてを犠牲にすることへの反発から来ている。

そして人間として当然の要求でもある。

なぜなら会社や仕事のために生きているわけではないからだ。

生活手段としての仕事であるし、趣味の延長といっても趣味が一つに縛られる必要もない。

人生のいくつもの目的を同時になそうとしているにすぎない。

視野の狭さは今や歳を重ねた連中の方が顕著となっている。

かつて軍事の世界ではRMA革命が人気を博した。

端的に言えばRMA革命に成功しない国は湾岸戦争イラク軍のようになると言われていた。

今の「世間知らずな」連中もイラク軍のように戦える状態ですらないのだと思う。

彼らが引退することが閉塞感打破の一歩となるだろう。

ポイントカードについて

近年店舗でのポイントカードの横断が起こっている。

先日丸善に行ったら、hontoポイントだけではなく、ポンタポイントやdポイントがたまる制度になっていた。

2種類もっている人間は2倍お得ということだ。

ポイント統合化の一歩のような気もする。

しかしもっていない人間にとってみれば損をしたことになる。

当然販売価格にポイントは加算されている。

そこからカードを2種類もっている人はバックされる。

そう考えるとカードを一種類だけしかもっていない人間は店舗に多く払っていることになる。

 

ポイントカードは顧客の囲い込みのために始まったものだ。

それが今ではポイントだらけとなり、囲い込みができなくなりつつある。

なぜならその店舗でポイントを貯めようとすると、店舗ポイントの他にTポイントやdポイント等のポイントも必要となるからだ。

そしてもっていない人間は作るかどうか毎回葛藤することになる。

これは顧客にとって不便と不利益をしいているように思う。

以前にサービス券についても述べたような気がする。

その時はその商品の適正価格を崩壊させ、どの値段で買っても損になるような気がするというような話をした気がした。

ポイントカードでも同様の話だ。

いくつものポイントを所有していなければまんべんなく恩恵を受けることができない。

これは利用コストがかかりすぎており不満を募らせるサービスのような気がしている。

 

以前はいくつものポイントカードをもっていた。

しかし今では1業種1枚にしている。

家電はヨドバシだけしか行かない。

ポンタカードとWAONカードは利用が少ないため廃棄した。

Tポイントとナナコカードで大体の店は網羅できる。

スーパーはよく利用するのでもっている。

しかしそれ以外はポイントを所有しないようにしている。

その一方でアマゾンをよく利用する。

ようは価格が安そうな店を事前に網羅しておき、最低価格で買わないようにした。

いちいちポイントも勘案した最低価格は苦労が多い。

しかしその結果得れる差額は微々たるものだ。

 

企業はポイントカード内にある買物情報がほしいはずだ。

買物情報を得れれば購入傾向から周期や、ほしいものも特定が可能となる。

一企業では得れる情報に限度がある。

いくつもの企業情報を網羅した顧客情報は宝の山である。

今後もポイントの集約化は進むだろう。

逆に未だに紙媒体でポイントをやりとりしている企業はポイントの本当の意味を理解していないのだろう。

また顧客はよりよいサービスを受けたいのならポイントカードを持つべきだろう。

どうせ今の時代個人情報なんてどこでも売っている時代だ。

リスクを気にする必要などないだろう。

酒を酌み交わせば平和になるという幻想について思う

先週3回も飲み会に参加することとなり、うんざりしている。

毎日てっぺん超えはさすがに堪える。

そんなときに思い出した話がある。

 

公安の監視対象ともなり、一時期メディアで大きく取り上げられていたシールズがいる。

主張はともかくとして彼らは「酒を酌み交わせば平和になる」と思っているのが気に入らない。

こういった話はジョン・レノンもしていた。

話し合えば世界は平和になるというのは倫理的に正しいのかもしれないが、倫理観だけで人は動いていないという事実から目を背けている。

ジョン・レノンはグループを分裂させる原因を作ったし、シールズも内紛で解散した。

身内のごたつきも解決できない連中のたわごとによって酒を酌み交わせば平和になるという言葉が軽んじられることとなる。

 

実際酒を酌み交わせば平和になるというのも事実としてある。

だがこれは個人間レベルの話だ。

しかも決裂した仲ではなく、なんとなくこの人が好きではないという状態のときに成立する話でもある。

会社の飲み会でたまたま隣通しとなり取り繕うためになんとなく話をしてみたら意外な一面もあったと気づいた。

翌週から仕事ではギクシャクすることもなく円滑に業務ができるようになったというよくある話だ。

しかし決裂した仲や対立した両者が酌み交わしても意味はない。

シールズと安倍首相が酒を酌み交わしたとして仲良くできるとは思えない。

 

酒を酌み交わせば平和になるというフレーズは会社でもよく聞かれる。

特に40代以上の課長以上はよく言っている。

酒によって結束が強くなり業務もスムーズになると思っている。

だが家族でも四六時中一緒にいれば嫌になってくるのに、他人と仕事以外でも一緒にいることは苦痛でしかないと思う。

自分はそう思うのだが、表面上皆が酒を酌み交わすことは正しいと思っている。

「そうすることで社会が円滑に回る一種の知恵」なのだと。

シールズと課長たち役職者に共通している事項がある。

それは「自分たちは社会を知っている」と思い込んでいることにある。

同じような連中とだけ付き合い、内輪の理屈や道理だけで仕事をしているとそれ以外の存在はいないこととなる。

酒を酌み交わすより家に帰ってyoutubeみたいと思う人が存在していると思わない。

またyoutubeより自分と話をするほうが有益だと思っている。

低俗なネットにつながるよりもリアルの方が格が上だと思っている。

そういった連中は同じ話を何度もする。

壊れたラジオのように繰り返すことで自分はたくさんの引き出しと知識を持っていることを自分にインプットする。

同じ連中とつるんでいると壊れたラジオの合唱が始まる。

同じフレーズや内輪ネタに終止する。

自分たちはこれだけ優れているとインプットされる。

一種の思考停止状態となる。

いつの間にか他者も自分たちと同じ存在だと思うようになる。

話せば分かるというのは同じレベルでしか通じない。

そういったことが理解できなくなる。

 

少なくとも個人レベルの道徳観を会社や国際関係に当てはめようとする時点でこういった連中と酒を酌み交わしたいとは自分は思わない。

どうせ同調圧力と倫理観の押しつけをされるだけだ。

これも武力の一つの形であることを彼らは知っているのだろうか。

レイシズムについて思う

今年に入ってから特に感じることがある。

差別的な発言をやり玉にあげて批判し、撤回させる動きが強まっている。

例えば中国や韓国についての話題は批判にさらされたり、youtubeではアカウント停止や削除にまで発展している。

ネットではなんJによる通報騒ぎとして取り上げられている。

奥山真司先生がオーストラリアでサイレントインベージョンが進行していることを番組内で何度も取り上げている。

スタンダードジャーナル2 The STANDARD JOURNAL 2(スタンダードジャーナル編集部) - ニコニコチャンネル:社会・言論

国内でも右翼や左翼がそれぞれ非難合戦を行っており、互いの正義を押し付け合う光景がより鮮明になってきた。

 

批判を恐れるがあまりに少数派の極端な意見や批判を受け入れることでものを言えない社会がある。

先進国を覆っている閉塞感の正体のひとつに批判に臆するがあまりに何も言えない状況がある。

例えば結婚したら子供をたくさん作って欲しいと政治家がいえば批判される。

子供を生むことができない人やLGBTといった人たちをないがしろにしているといったことや古い価値観を押し付けることがけしからんと言ったことで批判するのだ。

とはいえ現在の日本で少子高齢化は問題である以上、子供をたくさん生んでもらうのは理にかなっている。

とはいえ何かを言えば必ず反対の意見が出てくるのは健全な世の中であると自分は思う。

なぜなら独裁制では反対の意見すらないのだから良い社会だと思う。

またどんな意見にも反対する人は一定数いるのは世の常でもある。

だがネットによって批判する声がより大きくなった。

沈黙の螺旋を例にあげるまでもなく批判の声は賛同の声より大きい。

人は元来ネガティブないきものであることを考えれば当然である。

しかしそのことを利用し、自分たちにとって政治的環境をよりよくしようとする動きもある。

例えば中国共産党による経済を背景にした侵食も該当する。

経済依存を増長しメディアを買収して、自らにとっていいことを宣伝したり都合の悪いことを批判することは古来よりどの国でも展開されてきた。

それと合わせて留学生が大学自治を利用して政治的主張を展開したり、ネットで都合の悪い動画を削除要請したりすることも起きている。

また企業のツイッターフェイスブックに大量に批判や謝罪を求めたりする書き込みをするなどすでに多くの国で起きている。

その結果何も言えない社会が到来しつつあるような気がする。

 

ネットによって個人はより多くの情報や社会にアクセスできるようになった。

90年台ではネット上に国境がなくなる統一した世界というものができると考えていた人もいた。

また政府がすべての情報を膨大であるがゆえにコントロールできないといった考えもあった。

しかしスノーデンに端を発して政府が膨大な個人情報を収集し、分析できることが判明した。

また中国が最も有名であるが、グレートファイアウォールの構築によって瞬時に切り離しができるようになっている。

ネットも国家の枠組みを超えることができなかったのだ。

そして影響は企業や個人にまで及び夜警国家への道を歩みつつある。

皮肉なことに独裁国家よりも民主主義国家で進捗している。

自由を尊重し、リベラルであろうとすれば独裁や夜警国家へ進むというパラドックスが起きている。

企業も万人に好かれようと思うがゆえに個性や新しい価値観を提供できなくなっている。

結果として無難な同じような商品を販売するしかなくなっている。

例えばsonyウォークマンが発売されたときは、新宿をローラースケートにヘッドフォンをつけた人を走らしたりしていた。

sonyは新しい価値観を提供することに成功した。

しかし今同じことを行えば安全対策や危険行為として批判にさらされるだろう。

 

世界が情報革命によって小さくなった。

しかし小さくなった弊害として瞬時にあらゆる批判までもが撒き散らされるようになった。

そのため批判を恐れば何もできなくなる社会がこのままでは強化される。

脱するためには自らの価値観を信じて、社会と対話をしていくことしかないと思う。

この批判に臆する状態というのはチャンスでもある。

誰もがコンプラだの騒いでいるときに、ギリギリを攻めればヒットを生み出すこともできる。

ギリギリを攻めるには時代の流れを感じ取ることが必要だ。

何を求めているのかというニーズを掘り起こすこと。

これはさまざまなビジネス書でも言われて陳腐化している。

いつの時代でも成功する法則はさほど変わらないのだ。

なので自分はせめてこのブログだけでもいいたいことを言おうと思った。

批判する多くの人間は対案すらださないのだから気にする必要がない。

素晴らしい価値観であるほど批判はでてくるものなのだから。

マッサージに行って人間の骨格について思うこと

体が硬直しているのが酷くなったので、マッサージに行った。

担当者は体を触りながら「ここも硬いですねぇ」を施術中ずっと言っていた。

普段歯を食いしばる癖があり、パソコンを使う仕事なので至るところが硬直していた。

結局ほぼすべてのところが硬直していた。

転職後の疲労や神経を使い続けていることなどによる硬直である。

定期的に体を動かしていれば防げるが難しい。

 

かつてウサイン・ボルト世界新記録を出したとき、解説者がチーターのように美しいと讃えていた。

しかし大学教授曰く、チーターとはまるでにつかわない程醜いと酷評していた。

人間は直立姿勢である。

直立姿勢なのは足2本で歩行することで手を使うことようにするためだ。

あくまでも目的は手を自由に使えるようにするために、直立姿勢に進化したと言っていいた。

そのため走って獲物を捕まえることに特化したチーターの機能美にはウサイン・ボルトに限らず人間は太刀打ちできない。

ナショジオ等でチーターの動きをスローで見れば、人間の走りとの機能美の差は一目瞭然である。

 

手を自由に使えるために進化したのが人間である。

しかし重いものを運べば腰を痛め、パソコンを使えば肩から背中がこる。

人間の骨格は欠陥が多いと思った。

縄文時代から考えれば1万年くらい経つ。

パソコンはともかく、重いのを運んだり、屈んで仕事をしてきた。

それに特化したように進化しても良かったのではないかと思う。

西洋では特に人間は万物の頂点にいるように思っているらしい。

しかし人間ほど環境に適応できない生物は珍しいと思う。

適応できないから、自然を自分たちの都合のいいように変えてきた。

そして社会を構成した。

 

これからさらに社会が発展し、考えられないような技術によって生活が営まれると思う。

しかし人間の体である限り、制約があり続ける。

また社会も体によって制約し続ける。

思想や常識というのも人間の体に収まっている限り、制約がある。

とりとめのない話となったが、肩こりから開放されたいと思う。

学校にエアコンがないことについて

自分の仕事はエアコンの保守も含んでおり、前職は冷凍機屋だった。

前職の相手は食品であり、冷凍機が故障すれば店舗にある商品が売り物にならなくなる。

商品自体の損害もあるが、何よりお客様が商品を購入できない機会コストの方が重視されている。

お客様はその店で3回目当ての商品がないと思うと店を変えるという話もある。

よって見えないが、重要な仕事である。

今はビル空調も担当している。

先週ビルの全体空調を司る機械が故障信号を出して停止した。

今のビルは高気密型のビルなので窓が開かない機構となっている。

よって空調機が停止すると、部屋内部の温度はOA機器、照明、人体の発熱と窓からの日射しや外気温が壁を伝って侵入する熱によって当然上昇する。

室内温度は35度付近まで上昇することとなる。

ユーザー窓口の担当者から電話が鳴り止まず、修理業者はなかなか来ることができずビル内は阿鼻叫喚の騒ぎとなる。

 

一方学校では35度付近の室内環境下で机に座って勉強している。

テストや将来のために先生の言うことや書いたことをノートに必死にとったりする。

また体育では炎天下の中適度な水分補給や塩飴も食べさせない劣悪な環境下で授業をしている。

工事現場の監督であれば顔が青ざめるほどの環境が学校にはある。

炎天下の中で仕事をさせるには近くにエアコンの聞いた避難所や車をおいておくのは当然である。

仮に熱中症で倒れた場合、速やかに体を冷やすためでもある。

また普通に考えれば炎天下の中で仕事をしている人間は誰しもエアコンで涼みたいと思う。

休憩はこまめにとり、仕事場の近くには必ず水筒をおいておく、仕事中にいくら飲んでも誰も文句は言わない。

 

仕事中に熱中症で倒れたりしたら労働災害となる。

医療費は当然会社持ちとなる。

是正報告書や元請等への謝罪など事件となる。

学校で倒れたらどういう扱いとなるのだろうか。