酒を酌み交わせば平和になるという幻想について思う
先週3回も飲み会に参加することとなり、うんざりしている。
毎日てっぺん超えはさすがに堪える。
そんなときに思い出した話がある。
公安の監視対象ともなり、一時期メディアで大きく取り上げられていたシールズがいる。
主張はともかくとして彼らは「酒を酌み交わせば平和になる」と思っているのが気に入らない。
こういった話はジョン・レノンもしていた。
話し合えば世界は平和になるというのは倫理的に正しいのかもしれないが、倫理観だけで人は動いていないという事実から目を背けている。
ジョン・レノンはグループを分裂させる原因を作ったし、シールズも内紛で解散した。
身内のごたつきも解決できない連中のたわごとによって酒を酌み交わせば平和になるという言葉が軽んじられることとなる。
実際酒を酌み交わせば平和になるというのも事実としてある。
だがこれは個人間レベルの話だ。
しかも決裂した仲ではなく、なんとなくこの人が好きではないという状態のときに成立する話でもある。
会社の飲み会でたまたま隣通しとなり取り繕うためになんとなく話をしてみたら意外な一面もあったと気づいた。
翌週から仕事ではギクシャクすることもなく円滑に業務ができるようになったというよくある話だ。
しかし決裂した仲や対立した両者が酌み交わしても意味はない。
シールズと安倍首相が酒を酌み交わしたとして仲良くできるとは思えない。
酒を酌み交わせば平和になるというフレーズは会社でもよく聞かれる。
特に40代以上の課長以上はよく言っている。
酒によって結束が強くなり業務もスムーズになると思っている。
だが家族でも四六時中一緒にいれば嫌になってくるのに、他人と仕事以外でも一緒にいることは苦痛でしかないと思う。
自分はそう思うのだが、表面上皆が酒を酌み交わすことは正しいと思っている。
「そうすることで社会が円滑に回る一種の知恵」なのだと。
シールズと課長たち役職者に共通している事項がある。
それは「自分たちは社会を知っている」と思い込んでいることにある。
同じような連中とだけ付き合い、内輪の理屈や道理だけで仕事をしているとそれ以外の存在はいないこととなる。
酒を酌み交わすより家に帰ってyoutubeみたいと思う人が存在していると思わない。
またyoutubeより自分と話をするほうが有益だと思っている。
低俗なネットにつながるよりもリアルの方が格が上だと思っている。
そういった連中は同じ話を何度もする。
壊れたラジオのように繰り返すことで自分はたくさんの引き出しと知識を持っていることを自分にインプットする。
同じ連中とつるんでいると壊れたラジオの合唱が始まる。
同じフレーズや内輪ネタに終止する。
自分たちはこれだけ優れているとインプットされる。
一種の思考停止状態となる。
いつの間にか他者も自分たちと同じ存在だと思うようになる。
話せば分かるというのは同じレベルでしか通じない。
そういったことが理解できなくなる。
少なくとも個人レベルの道徳観を会社や国際関係に当てはめようとする時点でこういった連中と酒を酌み交わしたいとは自分は思わない。
どうせ同調圧力と倫理観の押しつけをされるだけだ。
これも武力の一つの形であることを彼らは知っているのだろうか。
レイシズムについて思う
今年に入ってから特に感じることがある。
差別的な発言をやり玉にあげて批判し、撤回させる動きが強まっている。
例えば中国や韓国についての話題は批判にさらされたり、youtubeではアカウント停止や削除にまで発展している。
ネットではなんJによる通報騒ぎとして取り上げられている。
奥山真司先生がオーストラリアでサイレントインベージョンが進行していることを番組内で何度も取り上げている。
スタンダードジャーナル2 The STANDARD JOURNAL 2(スタンダードジャーナル編集部) - ニコニコチャンネル:社会・言論
国内でも右翼や左翼がそれぞれ非難合戦を行っており、互いの正義を押し付け合う光景がより鮮明になってきた。
批判を恐れるがあまりに少数派の極端な意見や批判を受け入れることでものを言えない社会がある。
先進国を覆っている閉塞感の正体のひとつに批判に臆するがあまりに何も言えない状況がある。
例えば結婚したら子供をたくさん作って欲しいと政治家がいえば批判される。
子供を生むことができない人やLGBTといった人たちをないがしろにしているといったことや古い価値観を押し付けることがけしからんと言ったことで批判するのだ。
とはいえ現在の日本で少子高齢化は問題である以上、子供をたくさん生んでもらうのは理にかなっている。
とはいえ何かを言えば必ず反対の意見が出てくるのは健全な世の中であると自分は思う。
なぜなら独裁制では反対の意見すらないのだから良い社会だと思う。
またどんな意見にも反対する人は一定数いるのは世の常でもある。
だがネットによって批判する声がより大きくなった。
沈黙の螺旋を例にあげるまでもなく批判の声は賛同の声より大きい。
人は元来ネガティブないきものであることを考えれば当然である。
しかしそのことを利用し、自分たちにとって政治的環境をよりよくしようとする動きもある。
例えば中国共産党による経済を背景にした侵食も該当する。
経済依存を増長しメディアを買収して、自らにとっていいことを宣伝したり都合の悪いことを批判することは古来よりどの国でも展開されてきた。
それと合わせて留学生が大学自治を利用して政治的主張を展開したり、ネットで都合の悪い動画を削除要請したりすることも起きている。
また企業のツイッターやフェイスブックに大量に批判や謝罪を求めたりする書き込みをするなどすでに多くの国で起きている。
その結果何も言えない社会が到来しつつあるような気がする。
ネットによって個人はより多くの情報や社会にアクセスできるようになった。
90年台ではネット上に国境がなくなる統一した世界というものができると考えていた人もいた。
また政府がすべての情報を膨大であるがゆえにコントロールできないといった考えもあった。
しかしスノーデンに端を発して政府が膨大な個人情報を収集し、分析できることが判明した。
また中国が最も有名であるが、グレートファイアウォールの構築によって瞬時に切り離しができるようになっている。
ネットも国家の枠組みを超えることができなかったのだ。
そして影響は企業や個人にまで及び夜警国家への道を歩みつつある。
皮肉なことに独裁国家よりも民主主義国家で進捗している。
自由を尊重し、リベラルであろうとすれば独裁や夜警国家へ進むというパラドックスが起きている。
企業も万人に好かれようと思うがゆえに個性や新しい価値観を提供できなくなっている。
結果として無難な同じような商品を販売するしかなくなっている。
例えばsonyのウォークマンが発売されたときは、新宿をローラースケートにヘッドフォンをつけた人を走らしたりしていた。
sonyは新しい価値観を提供することに成功した。
しかし今同じことを行えば安全対策や危険行為として批判にさらされるだろう。
世界が情報革命によって小さくなった。
しかし小さくなった弊害として瞬時にあらゆる批判までもが撒き散らされるようになった。
そのため批判を恐れば何もできなくなる社会がこのままでは強化される。
脱するためには自らの価値観を信じて、社会と対話をしていくことしかないと思う。
この批判に臆する状態というのはチャンスでもある。
誰もがコンプラだの騒いでいるときに、ギリギリを攻めればヒットを生み出すこともできる。
ギリギリを攻めるには時代の流れを感じ取ることが必要だ。
何を求めているのかというニーズを掘り起こすこと。
これはさまざまなビジネス書でも言われて陳腐化している。
いつの時代でも成功する法則はさほど変わらないのだ。
なので自分はせめてこのブログだけでもいいたいことを言おうと思った。
批判する多くの人間は対案すらださないのだから気にする必要がない。
素晴らしい価値観であるほど批判はでてくるものなのだから。
マッサージに行って人間の骨格について思うこと
体が硬直しているのが酷くなったので、マッサージに行った。
担当者は体を触りながら「ここも硬いですねぇ」を施術中ずっと言っていた。
普段歯を食いしばる癖があり、パソコンを使う仕事なので至るところが硬直していた。
結局ほぼすべてのところが硬直していた。
転職後の疲労や神経を使い続けていることなどによる硬直である。
定期的に体を動かしていれば防げるが難しい。
かつてウサイン・ボルトが世界新記録を出したとき、解説者がチーターのように美しいと讃えていた。
しかし大学教授曰く、チーターとはまるでにつかわない程醜いと酷評していた。
人間は直立姿勢である。
直立姿勢なのは足2本で歩行することで手を使うことようにするためだ。
あくまでも目的は手を自由に使えるようにするために、直立姿勢に進化したと言っていいた。
そのため走って獲物を捕まえることに特化したチーターの機能美にはウサイン・ボルトに限らず人間は太刀打ちできない。
ナショジオ等でチーターの動きをスローで見れば、人間の走りとの機能美の差は一目瞭然である。
手を自由に使えるために進化したのが人間である。
しかし重いものを運べば腰を痛め、パソコンを使えば肩から背中がこる。
人間の骨格は欠陥が多いと思った。
縄文時代から考えれば1万年くらい経つ。
パソコンはともかく、重いのを運んだり、屈んで仕事をしてきた。
それに特化したように進化しても良かったのではないかと思う。
西洋では特に人間は万物の頂点にいるように思っているらしい。
しかし人間ほど環境に適応できない生物は珍しいと思う。
適応できないから、自然を自分たちの都合のいいように変えてきた。
そして社会を構成した。
これからさらに社会が発展し、考えられないような技術によって生活が営まれると思う。
しかし人間の体である限り、制約があり続ける。
また社会も体によって制約し続ける。
思想や常識というのも人間の体に収まっている限り、制約がある。
とりとめのない話となったが、肩こりから開放されたいと思う。
学校にエアコンがないことについて
自分の仕事はエアコンの保守も含んでおり、前職は冷凍機屋だった。
前職の相手は食品であり、冷凍機が故障すれば店舗にある商品が売り物にならなくなる。
商品自体の損害もあるが、何よりお客様が商品を購入できない機会コストの方が重視されている。
お客様はその店で3回目当ての商品がないと思うと店を変えるという話もある。
よって見えないが、重要な仕事である。
今はビル空調も担当している。
先週ビルの全体空調を司る機械が故障信号を出して停止した。
今のビルは高気密型のビルなので窓が開かない機構となっている。
よって空調機が停止すると、部屋内部の温度はOA機器、照明、人体の発熱と窓からの日射しや外気温が壁を伝って侵入する熱によって当然上昇する。
室内温度は35度付近まで上昇することとなる。
ユーザー窓口の担当者から電話が鳴り止まず、修理業者はなかなか来ることができずビル内は阿鼻叫喚の騒ぎとなる。
一方学校では35度付近の室内環境下で机に座って勉強している。
テストや将来のために先生の言うことや書いたことをノートに必死にとったりする。
また体育では炎天下の中適度な水分補給や塩飴も食べさせない劣悪な環境下で授業をしている。
工事現場の監督であれば顔が青ざめるほどの環境が学校にはある。
炎天下の中で仕事をさせるには近くにエアコンの聞いた避難所や車をおいておくのは当然である。
仮に熱中症で倒れた場合、速やかに体を冷やすためでもある。
また普通に考えれば炎天下の中で仕事をしている人間は誰しもエアコンで涼みたいと思う。
休憩はこまめにとり、仕事場の近くには必ず水筒をおいておく、仕事中にいくら飲んでも誰も文句は言わない。
医療費は当然会社持ちとなる。
是正報告書や元請等への謝罪など事件となる。
学校で倒れたらどういう扱いとなるのだろうか。
自尊心の低さと能力について思う
平成が終わろうとしている。
この時代において4人の核家族という形態が一般的でなくなりつつある。
またマイカーやマイホームをもつとなるとさらに希少性が増すことになる。
結婚や恋愛ができない中年を指して平成ジャンプとまで言われている。
全体の平均年収は低下の一途をたどり、年収400万円あればいいという状況まできている。
多くの人が昭和時代に一般的になった上記形態について歴史上特殊であったとか、今はそういう時代ではないと言っている。
しかし怨念のようにネットを漂っている。
自分もそういった人間の一人だ。
とはいえ名前だけは知られた大学を出て、中小ではあるが正社員で就職し、一時期車も所有していた。
会社では評価が高く、将来は課長だ支店長だという話も何度も出ていた。
今の時代では結構恵まれた立場にあったと思う。
しかし自分には生まれてこの方彼女がいたことがない。
強烈なまでのコンプレックスを有している。
どんなに人間性に問題があろうが、非正規社員だろうが、Fラン大学や高卒であったとしても、彼女がいる人間は自分よりはるかに上位の人間だと思っている。
人間は社会性をもった動物である以上、一人では生きていけない。
だれかと関係性を構築しなければ生きていけないのだ。
そういった点において彼女がいる人々は何歩も先を行っている。
彼らは周囲と良好な関係を構築しやすく、また嫌われたとしてもそういったキャラということで受け入れられやすい。
しかし自分には彼女がいない。
そのため自分は別の方面で有能さを示さなくてはならない。
真面目さをアピールし、仕事に熱心に取り組み、成果をあげる。
なんども理不尽なことを言われても受け入れるしかなかった。
なぜなら対人関係において欠陥品である自分は躱す術をもっていなかった。
仕事上のいろんな知識を吸収し、仕事において皆に信頼される人物となった。
しかし結果は体に極度の負荷をかけすぎて潰れた。
転職して気づいたが、仕事上でどんなに成果をあげようが、必要とされようが意味のないものだと。
所詮は便利な人どまりなのだ。
いわゆる「いい人」どまりでしかない。
自分は自尊心が低いがためにこれだけのことができたという思いがある。
誰よりも仕事を頑張った。
そして能力を示すことができた。
それは今の仕事でも発揮されている自分の財産ともなっている。
しかし所詮「いい人」でしかない。
仕事をしすぎたせいで感情という機能が極端に低い水準で留まっている。
対人コミュニケーションも同様である。
すべてが仕事を中心に回っていたため人との一般的な交流に難があるのだ。
雑談と言ったようなことや共通の話題、趣味の話というのもない。
特に異性はどうにもならない。
一般的に言われている恋愛ノウハウを駆使したとしてもどうにもならない。
人の心が自分から離れていく感覚を何度も味わった。
自分は今猛烈な喪失感を味わっている。
仕事と孤立した趣味以外なんにももっていないことに喪失感を覚えている。
他者とのつながりがなく、孤立したまま老いていく恐怖、人とのつながりがなくなる喪失感。
虚無感といってもいい。
人は何かを成し遂げると自信がつくという。
確かにそのとおりだが自信にもいくつかある。
マズローの欲求の5段階と同じように自信にもそれぞれの階層に応じた自信というものがある。
また仕事なら仕事の類似性によっても自信が分かれている。
そのため例えば仕事でどんなに自信をもったとしても対人関係の自信がなければ砕け散ることになる。
自信は根源的な欲求が満たされ、獲得し続けられるという状態を経て自信を持つようになる。
では対人関係で駄目な場合はどんなに上位階層で自信をつけようが基礎が腐っているためたちまち倒壊するのだ。
人生にはやっておく順番というものがある。
それに失敗すると一生苦労することになる。
学生時代に恋愛できていた人は苦労が少ないだろう。
結局人間は社会性の動物である以上他者との関わりなしには満足に生きることができないのだ。
オウム真理教教祖死刑執行から死刑制度について思うこと
オウム真理教の教祖に対して死刑が執行された。
メディアで大騒ぎとなっており、今でも報道が続いている。
特に地下鉄サリン事件は2018年現在、世界中のどの国でも対策ができていない。
地下鉄の構造上の問題に起因しており、化学兵器テロの脅威を再認識させられた事件でもある。
当然今でもテロ対策関係本では教科書的な扱いを受けている。
当時の日本では終末思想等、いろんな思想が流行っていた。
アニメの世界でもこれから発展するネット社会に対して、大真面目にネットの中では人格が保持できるか否かが議論されていた。
世界的にはソ連が解体したことで民主主義の勝利を歌っていたが、拡散される核の脅威等によって世界がどうなるかなど議論があった。
日本では新興宗教がいくつもメディアに登場して世間を賑わしていた。
語るのが難しいが、とはいえ今回7人の死刑が執行されたことでここまで大騒ぎとなるのも思えば変な話だと思う。
平成という歴史が終わりつつあるときの風物詩として記録されるだろう。
しかし死刑を廃止することを訴えたりする理屈が不明である。
この国では年間3000人以上の人が交通事故でなくなる。
また自殺者数は年間2万人を超える。
この人々に対する報道より大きな報道がされている。
これだけで死刑の目的である見せしめの効果が十分にある。
死刑廃止論というのはかつての見せしめの刑罰執行に抑止がきいていないことが前提として始まったと思う。
犯罪抑止の観点より社会復帰を目指すやり方は以前話をした。
しかし死刑を無期懲役にして一体どんなメリットがあるのか不明だ。
刑罰は法の適用を通じて行われる権力による見せしめである。
この理屈にたてば死刑の方が見せしめとしての効果がある。
当然今までの死刑廃止論の抑止がきいていないことへ反論できていない。
だが犯罪者を更生し、社会復帰させることも犯罪抑止を狙った見せしめといえる。
問題となったのはあくまでも広場に人を集めて行われる刑罰執行であり、見世物としての効果が現れたことによる。
現在、死刑は手順に則り非公開で執行される。
公開しないことで、恐怖に訴えることもできる。
誰にも見られることもなく、規則に則り執行されるという人間味ない行為こそ抑止効果があると思う。
また死刑囚を無期懲役で刑務所に入れておくにも多額の税金が投入される。
誰しもが過去の犯罪をずっと覚えていられない。
閉じ込め続ける意味はない。
死刑執行によって法秩序が保たれている証明ともなる。
人間が人間を殺すことはいかなることでもいけないという理屈もある。
だが私はそう思わない。
そういった考えの人間の思想の自由は保証されないのだろうか。
世界には死刑廃止国とそうでない国がある。
わざわざどちらかに合わせる必要はない。
なぜなら法律は国家が制定するだからだ。
当然国ごとに差が出てくる。
世界を一つの法で縛るには、人類は到達できていない。
それはEUの分裂や多極構造化している世界をみれば明らかだ。
いかなるときも人を殺してはいけないという基準を人に押し付け、制度をそうしようとしている。
殺人は存在しないということを見せることで抑止しよとしている。
しょせんは想像力の欠如した机上の空論でしかない。
なぜなら何かを成し遂げたり、守りたいということで人を殺めるのだからなくすことはできない。
少女連れ去り未遂から思うこと
仁藤 夢乃 - 今日の14時半ごろ、渋谷から山の手線に乗っていたら、私の前を6歳の女の子が通り過ぎた。そのあとすぐ、... | Facebook
急に人気エントリーに3つも入っていたのでみた。
彼女の行動自体は称賛に値する者であり、記事だけをみるなら周りの男どもの不甲斐なさと世間の冷たさに心が痛む事件である。
連れ去られようとしていた少女に声をかけて、犯人の前でもかばい続けることは誰にでもできることではない。
周りの助けも得られずさぞかし心細かったと思う。
しかし性格の歪んだリアリストからみると、周りの助けを得られないのは当然だと思う。
近年痴漢や犯罪に巻き込まれた人を助けた人が疑われたり、犯罪者扱いされる事件が頻発している。
危険と思い子供に声をかけたら防犯ベルを鳴らされたとか、痴漢の冤罪で裁判になるなど個人が背負う社会コストが高くなっている。
セクハラの定義もあるが、セクハラ認定された段階で社会において居場所がなくなる。
セクハラの定義とは何か?セクハラ認定される言動と行動一覧 | 労働問題相談所
性的な言動等細かい定義はあるものの、第三者に認知された段階で無意味なものとなる。
裁判に勝とうが失った信頼は取り戻すことができない。
眼の前で子供が連れ去られようとしている状況に出くわしたとして、助けた場合のリスクが上記のことを考えると高くつくこととなる。
助けたはずなのに自分が疑われる可能性もあるからだ。
そして性犯罪者扱いされたら社会的に破滅する。
また近年は無敵の人が増加している。
自分と対峙した相手が刃物等を持っていた場合殺される可能性もある。
だからこそ新幹線で対峙して亡くなった人は称賛されるのだ。
そして希少だから称賛され、注目される。
その背景には数多のできなかった事例がある。
今回もその一例となるだろう。
助けなかった人たちも批判をされる言われはない。
なぜなら彼らにも守るものがあるからだ。
会社での地位や自分自身もあるだろう。
それ以外にも家族であったり、自分の子供も含まれる。
自分が他者を助ける過程で殺されたりしたら、残されたものはどうするのかという問題もある。
社会は称賛するだろうが、残されたものには意味のないものだ。
失ったものは取り戻せないのだから…
社会としては助けるのは道徳的にみて正しいこととなる。
しかし個人としては助けないほうが、自分たちの幸せを守ることとなる。
これは70年以上憲法9条のおかげで平和を保ち続けているといっている連中と同じだ。
周辺では戦乱が常にあるのに、具体的に助けもせずに自分たちは平和を享受しているのと一体何が違うというのだろう。
連れ去り事件の現場において最も必要とされたのは物理的な力の誇示である。
これは紛争地帯を平和にするのにも同じことである。
武力は平和をもたらすことがあるという事実を無視した結果起こったことである。
話がだいぶズレた。
助けなかった人たちにも生活がある。
眼の前の人を助けようとすることで支払うコストが高すぎることに問題がある。
冤罪や助けた人を踏みにじるような行動によってコストが増大している。
警察や司法までもが協力して、特に男性に圧力をかけている。
リベラルが女性の人権を唱え、権利を拡大するのはいいことである。
しかし過剰に主張することで何かをすれば犯罪者のような扱いをされるとわかっているならばわざわざ助けようとしないだろう。
特に小学生等に声をかけるだけでも犯罪者扱いとなる今ではなおさらだ。
しかし犯罪が起きるその時は助けてくださいというのは虫のいい話だと思う。
仮に少女を助けた人が男性であった場合、少女の反応は違ったものになるだろう。
少女からみれば危険人物が2人に増えたと錯覚することとなる。
仮に犯罪者を追い払ったとしても、助けた人が犯罪者扱いされることは目に見えている。
また助けた女性が3人組に声をかける前に、男性が助け舟を出したとしても必ずしも好意的に受け取られないだろう。
服装等があやしいと思われれば、犯罪者が2人に増えたと思われる。
例えば汗っかきのメガネをかけたデブやひょろりとやせ細ったいかにもオタク風情であればそう思われても仕方がないと思う。
まぁ犯罪者が2人になると思わなくても、信用できるかといったことや助けた後の対応がどうなるかは未知数だ。
助けた後のことまでコストを考えなくてはならないならば、助けない選択肢を取るのはありだと思う。
これから子供を持つ親はさらにコストを強いられるだろう。
子供の送り迎え等、いつ発生するかわからない犯罪に対応するのは大変である。
そして同時に人々に「人を見る目」がないのも顕著になったと思う。
誰に声をかけたら助けてくれるかといった人から得る情報を読み解く力が弱くなっている。
男性だから助けてくれる。
駅員だから助けてくれる。
わけではない。
助けるか否かは「その人」が決めるのだ。
緊急事態のとき、助けてくれるのは携帯電話ではなく、人を見る目である。