人にお金を貸すということ
社会人になっても同僚等からお金を借りようとする話があった。
人にお金を貸すということは その人に対して いくらお金をあげられるかということだ 。
人にお金を貸す場合、返してもらうことを考えるのではなく、いくらならあげられるかという相手に対する信頼性の問題となる。
その人の人格や素行に対する評価としていくら貸すかという問題でもある。
だから通常お金の貸し借りというのはおおっぴらかに行われないのは、互いにとって信頼性を金銭に変更しようとする行為にもなるからでもある。
だが、時としてやむ負えない理由から貸さざる負えないことがあったとしても上記の点に気を付ければ損失はそこまで多くはない。
借りる側の人間の性質について共通項がある。
そもそも自分の分を超えたお金を使っているのにも関わらず、さらに他者からも借りるという行為自体が身の程を知らないという言葉があう。
自制心が欠如したことから金銭トラブルが起こるのだ。
そういった人間を見極めるには、日頃からの行いを観察し、情ではなく行いの評価とする。
そのことは自分を守ることにもつながる。
自分を守ることは大切であることを対人関係では欠落する時がある。
学校教育では、調和と他者が困っているときは助ける心を尊ぶ。
しかし世の中ではパラドックスが通常といってもいい。
世間の正義が必ずしも自分にとって良い結果をもたらすとは限らない。
そしてこの場合、互いにとってひどい結果となることは必然である。
金の貸し借りはしないのは先人の知恵でもあるのだ。
歯の食いしばりについて
いつからかわからないがいつのまにか歯の食いしばりが常態化している。
認識したときは大学生だった。
だんだんひどくなったため社会人になったときにマウスピースを使い始めた。
睡眠時の食いしばりは軽減されたが改善には至らなかった。
最近肩こりと首のこりがひどくなったため記事をさがした。
日中については意識すればどうにかなるだろうが睡眠時にはどうにもならない。
ほかの記事ではストレスを軽減することやリラックスのやり方など書いていたが改善するとは思えない。
どうにかならいものかなぁ~
PS
3日目くらいだが効果がでそうなことがみつかったので展開。
首のこりが少しとれたような気がする。
だが睡眠中の食いしばりは依然として治らない。
学校での教育と生徒のことについて
上記記事では教師が素行の悪い生徒の面倒をみることができないという嘆きだった。
返答については正鵠を射ているのでここでは述べない。
ただ近年教師の過重労働が取り沙汰される状況でもあり、保護者からのクレーム対応等精神的に辛い状況が存在する。
かつて教育とは勉学のないものに知識を与えるという目的から出発している。
現在の教室の形態は産業革命時のイギリスでも見られたものだ。
そのときは労働者に必要な知識を与える場となっていた。
それから近年になるまで変わってはいない。
学校から教養やしつけ、思春期における精神の鍛錬等さまざまな役割を担うこととなった。
この原因は教育が万人が受けれるものに史上初めてなったことと、学校が選ばれる時代へとなったことによるものだ。
教育は受けさしてもらうものから受けるものへとの変化は学校と生徒と保護者との関係に変化を生じさせた。
思春期の精神向上等の新たに追加された項目は、かつて結社や師の元に集った勉強会等の役割であった。
ここでは勉強や熟練度をテストで図るのではなく時間をかけて人間成長をしていくやり方であった。
元来教育には手間と時間がかかるものなのだ。
しかも期待通りのものが仕上がるかは賭けの要素が大きい代物で明快な答えなど存在しない。
全てが数値化され、効率化を進められる中で今最もできない部分が教育なのだ。
人間が存在することで機械の生産性に悪影響を及ぼすようになり、人間が機械に使われているような状況だから教育というお金と時間をかけてゆっくりやるやり方は好ましくないのだろう。
今必要なことは将来の発展を担う人材を育成することであり、既存の教育システムを大幅に改良することだ。
少なくとも黒板に向かって勉強するやり方以外にも様々なやり方を並行導入する必要がある。
テストというものは必要なのだろうがテストだけで成績をつける体制も変化するだろう。
知識を叩き込むだけが教育なら塾に通ったほうが効率がいいことは間違いない。
生徒それぞれに出来不出来がありニーズに即応するのは塾の見せ場なのだから。
人間の形成において教育の果たす場所は学校の外にもあった。
地域の交流が減っていく中で生徒は学校と特定の場所を行き来するだけになった。
勿論安全と効率性をみればいいのだろうが、幼少期から世界が広いことを見せる必要がある。
それは海外に行くとかそういうことではなく、子供が自分だけで冒険に出ることだ。
幼少期において裏山など近場だが普段行かない場所は興味がつきないものだ。
新しい場所に行くと人は眼を開き、周囲の細かいことまで観察しようとする。
神経は研ぎ澄まされ精神の高揚を感じるだろう。
そのことこそが成長の証であり、子供が個性を獲得する瞬間でもある。
個性とは何人にも知られない自分だけの領域である。
そのことはプライバシー権として民主主義の根幹を形成する一つとなっているのだ。
習い事というのも、上達した結果何かが出来たということだけではなく、自分が両親から離れ削除一つ事に没頭することで自我の形成をしようとする精神志向の結果として個性が生まれたのだ。
個性を生み出すには自身の内部で卵を温めるように大事に隠しておくものだ。
他者からの介入で代わりに温めても孵化することはないだろう。
今の生徒の置かれている立場は凄惨なものだ。
かつてミシェル・フーコーが社会は監獄であり、国家や世間は監視塔のようなことを書いた。
学校と特定の場所を行き来するだけであるため、その生徒は監獄に閉じ込められたようなものだ。
学校というものほど人を効率的に収容し、規律を叩き込む場はない。
そこでは教師という看守に番号を与えられ画一的に整列させられている。
また生徒間でも教師に告げ口をしようとする密告者やチームを形成しシノギをけずっている。
そこではイレギュラーをおいておくスペースはないのだ。
誰かをスケープゴートにするこで監獄の秩序を維持しようとするのは効率的であり、また生徒にとっていい子でなければスケープゴートにされるという恐怖心を植えることもできる。
生徒それぞれに学校以外の場所を作らせることはいつでも逃げれる場を作ることでもある。
人生では起こってほしくはないが、撤退を迫られる場がある。
それはいつ誰に起こるかわからないが幼少期に学校で起こらないという可能性はないのだ。
社会人ですら退職して次に行こうという考えを持てずに自殺してしまう人がいるのだ。
なぜ子供には逃げる場を与えないのか。
子供は強者の理不尽さに常に耐えている。
子供が自殺するという選択をしてしまうのは致し方のないことだ。
正しいことが子供のためになるわけでもない。
道徳的に子供のほうが敏感であるものだ。
なぜなら大人は逃げ道や建前と本音を使い分けることで正しいことを躱す術を知っているからだ。
正論だけで世の中が成り立っているわけではない。
当然子供にも当てはまるのだ。
子供も立派な社会の構成成員であるのだから互いに尊重するのは当然なのだ。
母子家庭の問題
母子家庭が増えている。
これは男女に平等に権利が与えられた結果でもある。
女性の自立を象徴するひとつの事例ではあるだろうが同時にそのことによって貧困が多くなっている現実もある。
私から言わせれば男を見る目がなかったやつが貧困になったから助けてくれというのは虫のいい話である。
勝手に結婚して勝手に離婚して助けてくださいというのは意味がわからない。
この社会は将来はいざ知らず今現在は男が働いて女性は家庭を守るという社会制度を未だに引きずっている。
解決には多くの時間がかかる。
少子高齢化社会といっても貧困の子供を沢山作ったところで格差は縮小することはなく、学習する機会も不十分な子供が成長することにより貧困が拡大されることが問題だ。女性は子供というリスクを抱えているのだから結婚に対するリスクも考える必要がある。
子連れの女性を好きになる人もそんなにいないだろう。
再婚して生活の向上を願っても男性側も進んでリスクをとろうとは思わない。
男の側は離婚すれば再婚相手を容易に見つけられるだろう。
おんないというのは蛾みたいなもので光り物に群がる性質があるから。
マスコミで母子家庭を褒める傾向があるが道徳的に正しいことが本人にとって必ずしもいい結果をもたらすとは限らない
日本の規制が多いことについて
ウーバーの話は海外では何回も出てきている。
階層の上位に位置する話でタクシー会社だけではなく、インフラを変えようとする大胆な発想から生まれている会社だ。
しかし日本はタクシー会社に配慮するように規制を盾に参入妨害をしている。
かつて日本は護送船団方式という戦時中では一切しなかった政策で成長し続けたが、今その肥大化した行政管理によって国家財政は破たんをきたそうとしている。
規制をすることはそこにお金がかかる。
ウーバーのような規制を撤廃し、市場を活性化するような会社は国家にとっても利益となる。
国家は国民を保護の名のもとに規制を作ることをやめる必要がある。
また規制はさらに多くの規制と補助金を必要とする。
一度規制によって守られた団体は、それを当然のこととし、会社も規制ありきで経営するからだ。
そして規制によって市場の流動性が硬直化することでさらに需要のパイが少なくなる。
このことは日本の農業にもいえることだ。
消費者にとって一番いいことが望ましいことであり、規制はその消費者の不利益をこうむらないためのものだった。
しかし消費者という視点を忘れた規制は利益団体の温床となる。
日本の経済と国家財政を考えればそのようなことをしている余裕はもうないのだ。
家電リサイクルでの出来事
会社にてよくトラックに満載になるくらいの家電がたまることがある。
会社で処理ができてしまうのだが、法律上家電リサイクルに出すことが決まっているので法令順守ということでリサイクルの手続きをするため郵便局に行った。
大抵郵便局では窓口が2つある。
郵便と銀行業務の2つだがどっちにいくかは毎回違う。
家電リサイクル業務は銀行窓口であることが多いのだが、まずそこからしてわからない。
そしてリサイクル券を台数分もらってくる。
これが10台にもなると記載項目数が多い。
住所を書くところが2か所とメーカー名と製品の番号を書くところがある。
これは処理上やむおえないので仕方がないと思っている。
だがメーカー名を書くのは番号があるためリストを借りないとわからないのだ。
しかし郵便局には奥にしまっているため借りるためには持ち出さないことなど注意を毎回受けることとなる。
さらにリストはメーカーの統廃合や処理費用の高騰などによって定期的に変わってしまう。
そのため社内にて控えてきても金額が違ったりすることがある。
郵便局では大抵慣れていない業務らしく毎回すったもんだする。
郵便局内部の決まり事などにイライラさせられる。
リサイクル券を受け取った後、リサイクル場へ製品を持っていく。
大抵は物流倉庫の一角にあることが多い。
製品をそこで下ろすのだが、またひと悶着するのだ。
まずリサイクル券を持っていくことがアウトになる。
リサイクル券は決まった場所に決まった角度で事前に張るらしい。
そもそもそんなことがどこに書いているのか不明であるし、郵便局で説明をうけていないのだ。
リサイクル券を張ったら、エアコンの場合内機にもリサイクル券からシールを見つけて、決まった方向と場所に張るのだ。
そしてリサイクル場にもっていったとき、中に3枚程度用紙が挟まっているのを出し、うち2枚を職員に渡す。
職員は2枚を事務所で処理したら1枚返してくる。
それをもらって帰ることとなる。
だがそもそも張る方向すらどこに記載されているかも不明である時点でお察しものだ。
4人がかりでシールを貼り、常識がないという態度で説明を受ける。
さらにエアコンなどは部材がついているのだが、それは引き取り不可など細かいルールもある。
半年に一回もないようなことで毎回不愉快な思いをさせられる。
ごみ一つ出すだけでこんなに不愉快な思いをするなら山に捨てたくなる気持ちもわかる。
日通だとリサイクル券をもっていけば張ってくれるのでそれに慣らされたというのもある。
今度から遠いけど日通にもっていくことにする。
まったくごみ一つ出すのに不愉快な思いをさせられるということが意味が分からない。
国籍についての雑感
だが自身の国籍問題を棚上げにした人間を党首にする神経が理解できない。
国籍というのは自らの所属を示すものだ。
日本にいれば日本国籍を有していることは当然のように考えられている。
それは日本に暮らし、日本という土地に根を張っているからだ。
左翼どもは進歩性をうたい根を伐ることに快感すら覚えるようだが、根を下ろしていないことが彼女らの浮ついた行動へつながるのだろう。
彼女は台湾との2重国籍だったことは、彼女が優柔不断の塊であることを示している。
また彼女は2重国籍であることを利用していた。
これは狐の化かしに相当するもので、そのような利己主義者に党首を選んだ民進党と彼女に未来を与えてはならない。
国籍を決めるということは日本では意識されないことだが、日本に世話になっていることの証明でもある。
『国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい』ジョン・F・ケネディ
左翼どもは国家の寄生虫になることを望んでいる。
2重国籍の問題も国家の寄生虫でいたいことの証である。
いいとこどりをして責任逃れをしようとする人間は常に逃げ道を確保しようとする。
そのことがみっともなさを演出するのだろう。
日本で育ったものならば日本に骨をうずめる位の覚悟を持ってほしい。
でなければ外国籍を取得すればいいのだ。
20歳を超えれば成人として扱われるのだから自分の国籍位自分で選べばいいのだ。
寄生虫にいてもらう必要はないのだからどこえなりともいけばいいのだ。
そういった覚悟すらない連中が政治を動かしていることが嘆かわしい。