会社の上役は偉いわけではないと思う
結論は題名の通りでそう思っている。
会社では取締役とか社長とか偉い人という呼び方をする。
偉いというのは地位や身分が高い人や優れた人という意味がある。
確かに会社には役職があり、取締役は高い位置にいる。
しかし地位の言葉は「帰属的地位」「業績的地位」の2つにわけられる。
帰属的地位は親や家族、家格で本人の力ではどうにもできない。
業績的地位は才能や能力で業績を上げた結果として獲得される。
ようは偉い人というのは結果を出して業績的地位を獲得した人になる。
なぜ言葉遊びから入ったかというと会社の役職というのは業績的地位として獲得されるものではないと思うからだ。
会社の役職というのは集団行動をする上において役割を与える意味で設けられていると思っている。
社長という役割を与えられた人は会社が業界や社会の中でどういった立ち位置で会社を運営するかといった抽象的な問題や課題等を解決する人。
部長というのは会社全体のことも考えつつ、部内の運営や発展を考える役割の人。
課長以下役割の範囲は具体的かつ実務的なことが増えてくる。
そしてパートやアルバイトというのは比較的誰でもこなせるが、マンパワーの必要性から役割として与えられている。
役職が存在するのは一人ではすべてをこなせないために分業制をとっているからに過ぎない。
そして社長に多くの賃金が支払われるのは業績を上げた結果として支払われる。
あくまでも賃金の多少によって結果が現れている。
近年よくあるのは雇われ社長という存在で、全くの異業種から社長になる人がいる。
業績的地位の結果として社長となるならば、雇われ社長の存在はあってはならない。
しかし現実としてある。
これは社長という役割がうまくこなせる人が社会に一定数いることを物語っている。
またピーターの法則によって上に行くほど無能になるという法則がある。
業績的地位の結果として得られるならばピーターの法則はあてはまらないことになる。
なぜなら社長というのは会社の中で最も成果を上げた人になるからだ。
しかし実際はピーターの法則がうまく機能してしまう。
結局の所、人にはそれぞれの役割を全うできる範囲が存在するのだ。
抽象度の高いことが得意な人、職人気質で現場大好きな人など色んな人がいる。
当然社長という役割が得意な人がいれば下っ端で最も成果を上げる人がいる。
そして社長が最も賃金が高い理由は、その決定によって会社が潰れるリスクを最も背負ってい人だからだ。
だからこそ、それ以上の業績を上げた人は正社員の下っ端でも社長より多くの賃金を得るのは本来あって当然だと思う。
企業統治やコンプラがうまくいかないのは、封建的な制度をそのまま会社に持ち込んでいることにある。
上役になったから下っ端をいびったり、自分が偉く人を顎でこき使うのは会社という制度から逸脱した行為だと思う。
日本は周辺国とは違い、民主主義国家であり万人が平等である。
しかし会社に入ったら身分があるのは民主主義に反している。
あくまでも役割としての差があるに過ぎない。
この差というのは下っ端であったとしても上に抗議したりするのは権利として与えられていることを意味する。
パワハラやセクハラといったことは当然許されるものではない。
その原因が会社では平等の権利を有していない意識から発生している。
学校においても生徒や先生というのは役割として与えられている。
当然教育の一貫として人に手を上げたり、罵倒する行為は傷害罪となる。
一般企業で同じことをすれば傷害罪として捕まるのに、教育現場では体罰として処理されるのは平等な権利を生徒に与えていないことの現れでもある。
若い人ほどこういった平等意識を持っているように思う。
この意識は日本に民主主義という概念がようやく浸透した結果だと思っている。
不満や道徳的におかしいことに対して抗議できる自由があるのが民主主義である。
そしてそういった様々な意見がでてくるのが民主主義の強みでもある。
会社は封建的な役職形態から役割へと移行しなければ、今後事業が成り立たなくなる可能性もある。