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私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

学校での教育と生徒のことについて

 

 

togetter.com

 上記記事では教師が素行の悪い生徒の面倒をみることができないという嘆きだった。

返答については正鵠を射ているのでここでは述べない。

ただ近年教師の過重労働が取り沙汰される状況でもあり、保護者からのクレーム対応等精神的に辛い状況が存在する。

 

かつて教育とは勉学のないものに知識を与えるという目的から出発している。

現在の教室の形態は産業革命時のイギリスでも見られたものだ。

そのときは労働者に必要な知識を与える場となっていた。

それから近年になるまで変わってはいない。

学校から教養やしつけ、思春期における精神の鍛錬等さまざまな役割を担うこととなった。

この原因は教育が万人が受けれるものに史上初めてなったことと、学校が選ばれる時代へとなったことによるものだ。

教育は受けさしてもらうものから受けるものへとの変化は学校と生徒と保護者との関係に変化を生じさせた。

思春期の精神向上等の新たに追加された項目は、かつて結社や師の元に集った勉強会等の役割であった。

ここでは勉強や熟練度をテストで図るのではなく時間をかけて人間成長をしていくやり方であった。

元来教育には手間と時間がかかるものなのだ。

しかも期待通りのものが仕上がるかは賭けの要素が大きい代物で明快な答えなど存在しない。

全てが数値化され、効率化を進められる中で今最もできない部分が教育なのだ。

人間が存在することで機械の生産性に悪影響を及ぼすようになり、人間が機械に使われているような状況だから教育というお金と時間をかけてゆっくりやるやり方は好ましくないのだろう。

今必要なことは将来の発展を担う人材を育成することであり、既存の教育システムを大幅に改良することだ。

少なくとも黒板に向かって勉強するやり方以外にも様々なやり方を並行導入する必要がある。

テストというものは必要なのだろうがテストだけで成績をつける体制も変化するだろう。

知識を叩き込むだけが教育なら塾に通ったほうが効率がいいことは間違いない。

生徒それぞれに出来不出来がありニーズに即応するのは塾の見せ場なのだから。

 

人間の形成において教育の果たす場所は学校の外にもあった。

地域の交流が減っていく中で生徒は学校と特定の場所を行き来するだけになった。

勿論安全と効率性をみればいいのだろうが、幼少期から世界が広いことを見せる必要がある。

それは海外に行くとかそういうことではなく、子供が自分だけで冒険に出ることだ。

幼少期において裏山など近場だが普段行かない場所は興味がつきないものだ。

新しい場所に行くと人は眼を開き、周囲の細かいことまで観察しようとする。

神経は研ぎ澄まされ精神の高揚を感じるだろう。

そのことこそが成長の証であり、子供が個性を獲得する瞬間でもある。

個性とは何人にも知られない自分だけの領域である。

そのことはプライバシー権として民主主義の根幹を形成する一つとなっているのだ。

習い事というのも、上達した結果何かが出来たということだけではなく、自分が両親から離れ削除一つ事に没頭することで自我の形成をしようとする精神志向の結果として個性が生まれたのだ。

個性を生み出すには自身の内部で卵を温めるように大事に隠しておくものだ。

他者からの介入で代わりに温めても孵化することはないだろう。

 

今の生徒の置かれている立場は凄惨なものだ。

かつてミシェル・フーコーが社会は監獄であり、国家や世間は監視塔のようなことを書いた。

学校と特定の場所を行き来するだけであるため、その生徒は監獄に閉じ込められたようなものだ。

学校というものほど人を効率的に収容し、規律を叩き込む場はない。

そこでは教師という看守に番号を与えられ画一的に整列させられている。

また生徒間でも教師に告げ口をしようとする密告者やチームを形成しシノギをけずっている。

そこではイレギュラーをおいておくスペースはないのだ。

誰かをスケープゴートにするこで監獄の秩序を維持しようとするのは効率的であり、また生徒にとっていい子でなければスケープゴートにされるという恐怖心を植えることもできる。

生徒それぞれに学校以外の場所を作らせることはいつでも逃げれる場を作ることでもある。

人生では起こってほしくはないが、撤退を迫られる場がある。

それはいつ誰に起こるかわからないが幼少期に学校で起こらないという可能性はないのだ。

社会人ですら退職して次に行こうという考えを持てずに自殺してしまう人がいるのだ。

なぜ子供には逃げる場を与えないのか。

子供は強者の理不尽さに常に耐えている。

子供が自殺するという選択をしてしまうのは致し方のないことだ。

正しいことが子供のためになるわけでもない。

道徳的に子供のほうが敏感であるものだ。

なぜなら大人は逃げ道や建前と本音を使い分けることで正しいことを躱す術を知っているからだ。

正論だけで世の中が成り立っているわけではない。

当然子供にも当てはまるのだ。

子供も立派な社会の構成成員であるのだから互いに尊重するのは当然なのだ。