原子力発電についての雑感
日本はエネルギー資源がないというのは事実だ。
津波によって原発が炉心融解をおこした後、日本は石油や石炭をかき集めて発電した。
その富は日本車を海外で売ったりした外貨で賄われている。
日本の産業は将来はともかく、加工貿易であると言われた。
すなわち資源を輸入し、製品を作り輸出して外貨を得るというやり方だ。
モノづくり日本というものを象徴したのが加工貿易なのだ。
しかし発電に関してはプルトニウムやウランを輸入することは必要だが、長期間に渡って使い続けることができる。
日本の技術を使うことで外貨を使うことなくエネルギーを得ることができる。
しかし今問題なのは東電に代表されるような電力会社に対するイメージが悪いことと、「もんじゅ」の廃炉、津波による電源喪失による安全対策だ。
人間は目に見えない脅威に対して過大に評価する傾向がある。
交通事故で亡くなる方と今までで原発にて亡くなった方と比べた場合、さらに原発で被害を被った方を含めても交通事故のほうが多いのだ。
これは目に見えるか否ということだ。
安全対策はもちろん重要な事だが、さらに言えば核融合を成功させ、エネルギーとして利用すれば廃棄物問題や安全について問題が少なくなるのだ。
原発技術は洗練する必要があるし、廃炉にしても廃炉しやすいように設計することや、世界中に日本の技術でもって原発を作ることで持続可能な発展が可能となる。
日本は今後衰退する中で貴重な技術資源である原発関連技術を守っていく必要がある。
感情的な批判ではなく、利益と安価なエネルギーを求めていく必要がある。
大東亜戦争原因の思いつき
日本が戦争に追い込まれる状況を作ったことが問題であり、原因は軍部の暴走を抑制する手段の欠如と暴走する国民とマスメディアの良識の欠如である。
前提として勝てない戦争に仕掛けられたにせよ、仕掛けざる負えなかったとしても戦争をすること自体誤り出会ったのだから防ぐ努力が必要である。
1940年3月からの交渉の話ではなく、海軍が米国との戦争で勝利できないにもかかわらず、予算を要求し続けたことと、戦争回避のための関係構築が外務省に不足していた。
WW1までは協調していたこともあったのだから関係がこじれたとこには何かしらの原因がある。
日英同盟解消から国家としてのコントロールが機能しなくなった。
元老が存在して成立していた国家機能が形式を重視することで機能不全に陥った。
そのため天皇の君臨すれども統治せずという方針も意味ないものへとなった。
内向性と仕事について
人と会うと嫌になってくるというのが昔からあった。
学生の頃は内向性というものが分からず、悩んだ時期もあった。
内向性であることは他者にはなかなか理解できない。
後輩や直属の上司は理解してくれるが、客先や外向性の相手やそういうふりをしている相手に対してはどうにもならない。
相手は対話によって理解を深めようとする。
その場合仕事後の飲み会や報連相を求めてくる。
仕事に対してある程度の自由さがほしい人間にとってはつらいものだ。
また飲み会はたまになら参加してもいいと思えるが月に2、3回と増えていくともうたまらない。
仕事中は人と接し続けていることで疲労しているのにさらに疲労することとなる。
仕事以外で付き合いを減らす方法と理解をある程度相手にも求めるスタンスは必要なのだろう。
戦争と女性の社会進出
死刑廃止について
瀬戸内寂聴という人間は典型的な綺麗ごとで世界が救えると思っている楽天家である。
世の中には道徳的に正しくとも、公正を欠くことはいくらでもある。
死刑廃止もその一つだ。
そもそも犯罪を犯す人はごく一部を除いて利己心に固まった人間が犯すものである。
刑罰は更生を企図して行われるが、更生不能な人間がいるのは当然である。
更生できる人間は刑期の中で、利己心さを悔やみ被害者に対する贖罪を行う。
しかし自らが犯した法に対して、法の方が間違っていると考える人もいる。
更生の意思もなく、計画的に多数の人生を破壊するような人間を生かしておく理由がない。
社会にとって害をなす人間を捕まえるのが警察の役割であるならば、司法は社会にとって今後さらなる害をなす人間を裁く場である。
司法の最強の武器は死刑であり、犯罪を犯す人間にとって最大のリスクは自らが殺されることである。
その可能性を「人を殺してはいけない」という道徳心で排除するのはばかげている。
法を犯した時点でもはや異常な状態であるのに、正常時の判断を適用しようとする矛盾に気づかない。
異常な状態には異常な状態でしか通用しない刑罰がある。
彼女らのような人種には真に人の温かみや慈しみといった感情が乏しいと思う。
なぜなら自らが被害者の親族となったとき、加害者に死刑を望むのは当然であり、社会的制裁を軽減するような行動をとるべきではない。
誰しも聖者になれるわけではないのだから聖者に合わせた法律を制定しても効果はないだろう。
人にお金を貸すということ
社会人になっても同僚等からお金を借りようとする話があった。
人にお金を貸すということは その人に対して いくらお金をあげられるかということだ 。
人にお金を貸す場合、返してもらうことを考えるのではなく、いくらならあげられるかという相手に対する信頼性の問題となる。
その人の人格や素行に対する評価としていくら貸すかという問題でもある。
だから通常お金の貸し借りというのはおおっぴらかに行われないのは、互いにとって信頼性を金銭に変更しようとする行為にもなるからでもある。
だが、時としてやむ負えない理由から貸さざる負えないことがあったとしても上記の点に気を付ければ損失はそこまで多くはない。
借りる側の人間の性質について共通項がある。
そもそも自分の分を超えたお金を使っているのにも関わらず、さらに他者からも借りるという行為自体が身の程を知らないという言葉があう。
自制心が欠如したことから金銭トラブルが起こるのだ。
そういった人間を見極めるには、日頃からの行いを観察し、情ではなく行いの評価とする。
そのことは自分を守ることにもつながる。
自分を守ることは大切であることを対人関係では欠落する時がある。
学校教育では、調和と他者が困っているときは助ける心を尊ぶ。
しかし世の中ではパラドックスが通常といってもいい。
世間の正義が必ずしも自分にとって良い結果をもたらすとは限らない。
そしてこの場合、互いにとってひどい結果となることは必然である。
金の貸し借りはしないのは先人の知恵でもあるのだ。