私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

国籍についての雑感

蓮舫氏が民進党の党首となった。

だが自身の国籍問題を棚上げにした人間を党首にする神経が理解できない。

国籍というのは自らの所属を示すものだ。

日本にいれば日本国籍を有していることは当然のように考えられている。

それは日本に暮らし、日本という土地に根を張っているからだ。

左翼どもは進歩性をうたい根を伐ることに快感すら覚えるようだが、根を下ろしていないことが彼女らの浮ついた行動へつながるのだろう。

彼女は台湾との2重国籍だったことは、彼女が優柔不断の塊であることを示している。

また彼女は2重国籍であることを利用していた。

これは狐の化かしに相当するもので、そのような利己主義者に党首を選んだ民進党と彼女に未来を与えてはならない。

 

国籍を決めるということは日本では意識されないことだが、日本に世話になっていることの証明でもある。

『国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい』ジョン・F・ケネディ

左翼どもは国家の寄生虫になることを望んでいる。

2重国籍の問題も国家の寄生虫でいたいことの証である。

いいとこどりをして責任逃れをしようとする人間は常に逃げ道を確保しようとする。

そのことがみっともなさを演出するのだろう。

 

日本で育ったものならば日本に骨をうずめる位の覚悟を持ってほしい。

でなければ外国籍を取得すればいいのだ。

20歳を超えれば成人として扱われるのだから自分の国籍位自分で選べばいいのだ。

寄生虫にいてもらう必要はないのだからどこえなりともいけばいいのだ。

そういった覚悟すらない連中が政治を動かしていることが嘆かわしい。

中国は自らをコントロールしきれない部分が多い

 

大国がゆえに管理できない部分が多く、統一性を欠く

日本が統一した意識や常識というものを共有していること自体が世界からみれば異端である。

それが誇らしいかは別にして中国に限らず大国と呼ばれる国には内部に大きな渦がいくつもあり、せめぎあい嵐をおこしている。

日本にとってその嵐を大きくすることが肝要だ。

 

自分の線の細さ

よく線が細いと言われる。

見た目もガリというレベルの細さなのだが見た目だけではない。

例えば誰かに責められたらキョドるし、仕事がキツくなると自暴自棄になったりする。

耐えるということが苦手である。

将来を考えると余計に不安となる。

会社で出世すれば板挟みになることも増えるだろうし責任の重圧もあるだろう。

失敗に対するリスクも増大するため線が細いことはデメリットが多い。

彼女ができて精神的に守るものが出来れば状況は変化するのかもしれない。

しかし現状ではそうはなっていない。

 

なぜそうなったのか。

ある研究では10台のうちにいい恋愛ができなかった人は鬱などになりやすいという。

そこまで極端でなくても学生時代の経験が人生におおきな影響を与えるのは事実だろう。

スポーツを部活でやっていた人はタフな人が多いように。

高校時代は酷いものだった。

女という存在が憎いものだった。

横を通るだけでもキモいというレッテルを貼られ、どうしても話すことができると2人で恐る恐る話しかけられる。

見た目という問題は障害者のように扱われた。

集団の排他性と異常者に対する攻撃性の恐怖を学んだ。

今でも引きずっている。

彼女がほしいとせつに願うが、自分が汚い存在である以上関係は発展しないだろうと思う。

お金を払えばキスしてくれたりすることに驚いた。

お金を払えばそこまでしてくれるのかと感心したものだ。

ある人は自分に恋愛感情に近いものまでいだいてくれた。

結局は実ることはなかったが衝撃的なことであった。

女性に触れると申し訳なく思ってくる。

こんな自分のために時間と労力をさいてくれることに。

だが恐怖心は拭えない。

親しくなると余計に思う。

いつあの目をしてくるだろうかと。

人を見下す様な、汚物を見るような目。

そう考えているから線が細いと言われるのだろう。

原発について

blogos.com原発について再稼働がなされているが、3・11以降反原発派の勢いは増すばかりである。

かの小泉純一郎元総理も反原発派に鞍替えした。

あのおっさんの場合別の思惑があるようにみえるが…

私は原発の再稼働に賛成している。

理由は単純に国内にてエネルギーを生産することのできる唯一のものだからだ。

火力発電は海外から石油やLNGを輸入する必要がある。

その金額は莫大であり、わが国が資源がない以上せっかく得た資金を流出させることはないと思う。

その一点は何事にも変えることができないものだ。

原発の安全性を問うのであるならば自動車の安全性の方がよっぽど問題である。

原発で亡くなった方よりも自動車事故で亡くなった人の方がはるかに多いし、環境についても同様である。

地球温暖化の原因は自動車が多すぎることであり、原発は削減する大きな手段の一つである。

社会は時として知識が多く必要とし、簡単に理解しえない問題についてただ反対する。

しかし日本にとって原発の生産性についてもっと考えてもいいと思う。

ただ東電のような半国営企業については新しい風をいれて業界全体の活性化を促進する必要はある。

東電の失敗が原発を悪と同一視する風潮がたしかにあるのだから。

若者の貧困についての雑感

シノドスの下記の記事を読んだ

synodos.jp

先進国の貧困が目に見えないものになっていることは以前から感じていることだ。

即ちネットカフェや記事内にあったシェアハウスのようなところで一夜を過ごすことができてしまうため、わざわざホームレスになる必要もないのだから。

家にいる人間の数はその国家の豊かさを計る一つの指標となる。

発展途上国が大人数で一つの家に住んでいるのは単純に家賃を払うだけの経済力がないためでもある。

先進国になれば各人の可処分所得が増大することから早期に親元を離れ独立することができる。

しかし衰退期にはいると可処分所得が減少することから実家から離れることが難しくなってしまう。

長期的視点に立てば経済的に独立が難しくなれば親の仕事を継いだりすることが多くなるだろう。

しかしそれは仕事の多様性を奪うことであり、親から受けた仕事が必ずしも今後の生活をも保障するとは限らない。

また両親がサラリーマンであれば受け継ぐ仕事もない。

そしてなにより両親が死去したあとの住まう家もなくなることだ。

これまで日本はバブル崩壊後の若年層に対する社会保障を怠ってきた。

早い人では40歳になるであろうこうした現象を放置すれば社会の活力は失われ、衰退に拍車がかかるだろう。

いまや誰もが「あたりまえ」の人生を歩めなくなっている。

理想と現実との乖離を実感する人が多くなってもらいたい 

 

 

若者のやるきのなさ 管理職の悩み

技術系の設備会社におり、典型的な昭和な中小企業である。

定年間際のベテラン勢と定年に合わせて補充された多くの若い人材のいびつな社員構成である。

中間層が薄いため教育は親子ほど年のはなれたOJTとなる。

会社ではOJTと名ばかりの現場放り込みで職人に教わるのが通常となっている。

会社での新入社員教育はほとんどなく数か月本社にて遊んだ後、各支店配属となる。

支店では各人が忙しくしているためOJTを行う機会自体が時間経過とともに薄くなり、また一人当たりの生産性を過度に追及する結果現場放り込みが常態化している。

「最近の若者は気が利かない」「やる気が感じられない」といったことが飲み会の席でよく言われる。

私は文科省の実験の第一世代であり、社会にでるときは「期待」をもって向かい入れられた。

私自身はよく気が利き、周囲を観察し、よく考え行動できるらしくおぼえめでたいものがある。

しかし私の一つ下の世代からどんどん気が利かなかったり、やる気喪失していたりとガタガタとなっている。

そのためゆとりの先駆者としてよく若い世代が何を考えているかということを聞かれる。

管理職からしてみると

  • ある程度の残業をなぜ嫌がるのか
  • 若いうちからなぜ苦労を自らに課そうとしないのか
  • なぜ会社にそこまで愛着がないのか
  • どうして人の作業をみて覚えようとしないのか、

といったことを中心として聞かれる。

  • よく返すこととしては自分の時間の方が大切だと考えているから
  • 給与が低いが残業しても低いことにかわりがない。
  • 苦労をすることよりも楽して仕事を回すことの方が大切であり、より効率的に仕事をする方法を求めている。
  • 会社だけではなく社会全体について不信感をもっている
  • 会社よりマニュアルがあればなんなくこなす、会社だけではなく

結局のところ納得してもらえるわけもなく頭を抱えている。

若い世代は労働について昭和的な会社にいること=会社に多く貢献しているという図式を軽蔑すらしている。

非生産きわまりないだけではなく、昇進に対する会社の考え方を疑問視している。

また残業について上限がわが社でも取り入れられたことから社会全体として仕組みを見直す必要があると思っている。

こういった仕組みを変える必要性について痛感しているのは今の世代だと思う。

それは生まれたすぐにバブルが崩壊、失われた30年ともいわれ学校を卒業するときは「ゆとり」というレッテルを張られ、もとから使えない代名詞でもあったにも関わらず、会社にはいればやっぱりといわれる。

社会からの肯定が極端に低いのが今の世代である。

それなら見返すための努力をしろといわれるだろう。

だが他人の意見を変えるより、場所を変える方が早いし、他者となぜ好き好んで争う必要があるのかという考えが出てきしまう。

またゆとり世代は社会が失敗し長期停滞に対して社会の変革をしないかぎりどうにもならないという考えがあると思う。

個人の努力ではどうにもならない大きな障害を敏感に察している。

そのため元気がないややる気が感じられないという評価となる。

必要なのは社会の改革、会社の仕組み改革である。

多くの企業では正社員の仕事の領域は不明瞭である。

それは仕事についてのマニュアルをつくることを怠ってきたことであり、マニュアルをつくることができないのにいかにして社員を教育しているのか。

また中堅社員に対する会社の教育が欠如しており、会社の将来の展望に対する構想力と中堅社員をいかに登用していくかという戦略性が欠如している。

大きな障害を除くことができれば、もともと秀才がおおいゆとり世代もより一層輝くだろう

若年層の貧困についての雑感

女子高生の貧困についての報道に国会議員を巻き込んだ騒動へと発展した。

 

blogos.com

 その人が貧困であるかという指針についてはシノドスの下記記事がわかりやすい

 

synodos.jp

記事では相対的貧困を基準にして考えることが必要であり、貧困者にも趣味がひつようであるという話だ。

 

貧困についてシノドスジェンダーのことと合わせて熱心に取り組んでいる。

リベラルを売りにして記事を配信をしているところであるから当然なのかもしれない。

ときどきリベラル色が強すぎて読む気を失せることもたびたびあるが、それでもなかなか得られない情報を展開してくれることから定期購読している。

 

話が脱線したが、貧困騒動の後積読状態になっていたシノドスの定期購読をあさっていたときにα-Syodos vol.197にて「家族」というテーマがあった。

内容は前時代的な家族形態(一族という「家」を中心とした農村共同体)から工業化がすすむことによって核家族化してきた歴史。

戦後家族を基本単位とした社会サービスが展開し、高度成長期にみられるサラリーマンと専業主婦という単位によって社会の貧困をカバーしていた。

しかし現在は低賃金の男女が結婚をすることによって社会階層が固定化し、政府が戦後行っていた最低限の社会保障では間に合わなくなっているということだ。

またこの中で特に面白かったことは家族を持つには「溜め」が必要であるという指摘だ。

これは自分の人生で培ってきた「信用」「保証」といったものだ。

会社員であればローンが組みやすかったり、社会的に信用が得られやすい人とそうではない人がいるこということだ。

それは結局のところ家族を作る際に双方にとって大事なものである。

溜めが少ない人は人生で様々な本来必要のない苦労をすることとなってしまう。

社会の再配分能力が偏っていることがこの貧困の原因であり、社会が停滞すると細かいことに注意が向かい大きな再配分の仕方など制度に対しては何も言わなくなってしまう。

この記事では個人ごとに再配分をやり直す提言があり、若年層の貧困についてもっと知りたい人はぜひとも読んでほしい。