献血ポスターにアニメキャラを使うことに思うこと
献血ポスターで「宇崎ちゃん」の大きな胸強調しすぎ?「女性をもの扱い」「いや、関心高まる」 : J-CASTテレビウォッチ
胸を強調したアニメキャラが起用されたことで賛否両論荒れている。
公共性を持ち、医療というセンシティブな内容に関わっている献血だからこそ炎上した気がする。
本件について正直どうでもいいしか感想がない。
キャラのことは何にも知らない。
だが献血しようとしている人がポスターをみて献血するわけではない。
別の理由があってするためだ。
ポスターをみて献血しようとする人は今まで興味をもっていない人や初めてする人に興味を持ってもらうためが大きい。
このポスターをみて否定的な感情で献血しない人がいたとしてもツイッター等で拡散され多くの人に認知されたことで広告としては成立している。
キャラの胸が誇張して書かれているという批判についてもどのラインならいいかという基準も人それぞれにすぎない。
極端なことを言えば社会に浸透しているいらすとやの女性も扇情的と言えてしまう。
今回のポスターにいえることはそもそもアニメキャラが広告として街中にあることに嫌悪する層が一定数いることを多くの人が認識できていない。
民主主義だの自由主義が侵害されているだの言う人がいるが飛躍しすぎである。
ただ個人が不快だからなくしてほしいと表明しているにすぎない。
今回の顛末で一番驚いたことはアニメキャラ広告これだけ多くの人が肯定していることだ。
20年位前、コミケに行く人やアニメ好きは犯罪者予備軍と呼称されていた。
宮崎勤という幼女連続殺人犯がアニメ好きという情報がメディアで拡散した結果である。
社会においてもアニメを見ている人は子供っぽいや危ない奴と見られていた。
2006年に涼宮ハルヒの憂鬱というアニメが放映された。
この作品が放映される前からアニメの放送が拡大し続けており、この作品でアニメブームが到来した。
テレビで放映するだけではなく様々なメディア展開を行うことで市場が拡大した。
アニメキャラのCDやライブを通じて広告宣伝も拡大した。
秋葉原ではアニメの広告がビル外壁全体に展開されており、全国へ波及した。
とはいえ2006年当時世間ではまだまだアニメに対する嫌悪感は広く共有されているように思われる。
秋葉原通り魔事件で加藤智大の見た目がオタクっぽいこともあり世間では偏見があった。
学校でも流行っていたが、格好からしてオタクとわかりそうな連中の間で共有されていたにすぎない。
明確な変化を感じたのは近年のいらすとやの人気がでた時だ。
アニメ柄に対する嫌悪感が世間で薄まったことで人気がでたと考えられる。
会社や役所といった資料にアニメ柄を使用すればクレーム必須であった。
だがアニメに対する偏見が薄まったことで簡潔にイメージを伝えるツールとして利用できるようになったと思われる。
ここまでになったのはテレビでの放送の他にガンダム世代以降の若年層が大人になって購買力が増大した結果、市場拡大ができたことにもある。
そして新たに若年層が参加することも大きい。
アニメの認知が広く共有されることでタイアップする企業や団体が増大した。
広告というのは買ったり、利用してもらうためにするものだ。
認知されなければ意味はない。
すでに認知されているものを通じて知ってもらうことは利用や購買する心理的抵抗を下げる効果もある。
要するに正のスパイラル作用で社会からアニメに対する嫌悪感が薄まった。
だがいつの世でも取り残されている人がいる。
今回声をあげている人達だ。
この人達の思考は20年前の犯罪者予備軍という認識から脱却していない。
こういった人達から見れば日本終了という世紀末の状態と錯覚するだろう。
テレビをつければアニメがいつもやっているし、ゴールデンタイムでは特集している。CMでもスマホゲームでアニメ柄のキャラが画面を走り回り、ネットで記事を読んでいてもバナーに表示される。
駅を歩いていても壁面広告がある。
街中歩いていても商店街のポスターの片隅にいたりする。
悪夢を見ているように思うだろう。
しかしもはやアニメ柄は人間の抽象化とアイコン化した存在となっている。
人間を起用すればスキャンダルや細かい部分での好き嫌い、発言によって広告主が不利益を被ることになる。
だがアニメ柄はコンテンツであるためその心配はなくなる。
化粧品など人間の肌に関わるものはアニメ柄は難しいがそれ以外の広告は増大するだろう。
現実とアニメの境界は曖昧になってくる。
とはいえ昔から宗教で仏像や絵画を書いていたのだからその延長線上にすぎない。
アニメがここまで社会に浸透した寛容さに驚いている。