私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

座右の銘や愛読書の質問をする人に思うこと

座右の銘や自分の核となる本について質問する人がいる。

質問する人は相手の精神の核となる部分のついて知りたいと思われる。

とはいえこういった質問の回答はほとんど同じようなものとなる。

多くの成功者が提示した本や言葉を見たからといって成功するわけではない。

私はこういった質問はあまり意味がないと思っている。

お子様ランチのハンバーグの上に刺さっている旗だと思う。

興味や気を引くきっかけとはなるが食材の美味しさや香りを味わえるわけではない。

例えば自省録を提示した成功者がいたとして質問者が同じ本を読んでも理解や解釈は異なったものになる。

またいつから意識するようになったのかでも異なる。

成功した後に振り返った結果なのか、成功する前に読んだものなのか、思春期に読んだのかでも解釈や理解は異なる。

読んだ回数や自分なりに纏めたノートを作成しているかでも異なる。

また育ちや経験によっても解釈が変わってくる。

要するに質問者の質問の設定が悪いに尽きる。

知りたいことは考え方や危機に陥るときの回避の仕方など質問者が根本で気になっている事柄が追求できていないがためにされる質問に聞こえてしまう。

結局その人のことを知る前に質問者が自分自身を知っていないと思う。