神戸の教員いじめについて思うこと
この事件が表面化してからメディア含めて多くの批判が加害者にと教育委員会に寄せられている。
一般社会なら集団暴行事件としてメディアに取り上げあれ、企業イメージは失墜し、加害者は実名報道されるだろう。
しかし学校という閉鎖された空間で同じことをしても、いじめとして片付けられる。
人権がいかに学校という特殊空間ではないがしろにされているかがよくわかる事件であった。
今回批判されているが同様の事件は次々とでてくるだろう。
教師という存在自体がスクールカーストで上位にいる人が成り上がる職業である。
学校生活で学校に肯定的なイメージを持ち、教師になりたいと思う人は恵まれた存在である。
学校を卒業し学校で労働しているため、学校という閉鎖された環境がすべてだと思っている。
職員室という閉鎖された空間が社会のすべてだと若い教員は特に思うだろう。
教師という職業についた以上、どこの都道府県にいっても同様の待遇だと思うだろう。
なにより自ら教師になりたくて業界に入った以上、心理的に抜け出すことは難しいだろう。
またベテラン教師にしても志が高い人はたくさんいるだろうが、クソなやつはどんな企業にでも一定数いる。
問題なのは自浄作用がないため行動が野放しになり制御できなくなる。
中小企業であれば問題が起これば社長や取締役に話が伝わる。
配置転換や部署のたらい回しをして被害を広範囲にばらまくが、一箇所に被害が集中するのを避けようとする。
これは正社員をやめさせにくいことにも原因はある。
また他の社員や上司が問題のある人間の行動を抑制したり、とりなしたりする。
取引先への影響も考慮し問題のある人物はある程度行動の制約をされる。
だが学校の人事は教育委員会にあり、校長が人事権をもっていない。
問題教師を市の教育委員会がクビ(懲戒免職)にできない理由 – アゴラ
役職としての上下関係はあるが、基本は同じ職場仲間という意識が先行している。
教育委員会に問題のある教師をわざわざ言うインセンティヴを校長が持ちにくい構造である。
教育委員会に校長が任命されている以上、自分が校長をしているときに問題が発生したら評価に関わってくるからだ。
また学校はセキュリティ強化の名目でより閉鎖的になっている。
地域住民との関わりも減り、共働きによって親の監視もゆるくなっている。
そのため外からいかに見られているかという意識を持ちづらくなっている。
以前から学校はパノプティコンと捉えている話をした。
異物がいないか教師が子供を監視し、牢獄に入れらた子供同士でも監視しあっている。
異物と判断されれば秩序維持のためにいじめと称して暴行や暴言を加えることで排除する。
いじめられた子供は学校と家の狭い空間に追い込まれ、圧死させられる。
個性を尊重すると言いながら画一的な教育を押し付け、教えたこと以外をさせないようにしている。
服装や髪の色、下着の色まで指定するという行為は子供を人ではなく愛玩動物として捉えている。
犬や猫にお気に入りの首輪や洋服を着せてよろこんでいるのとさして変わらない。
変わるとすれば教育指導と呼んでいるに過ぎない。
社会にでたらその子が困るから教えていると反論する人がいる。
だが困ることを経験から学ぶことも教育だと考える。
髪の色や服装にケチをつけ、本人が不利益を被ることで社会との折り合いをつける経験となる。
正解だけを教えても、なぜそれが正解なのかが不明では応用力が身につかない。
この話は学校だけではなく、閉鎖的な業界で働いている企業人にも言えることだ。
監視状態を脱却するためには外部から学校を監視する目が必要となる。
地域社会で高齢者などと接する機会をより多く設けたりする必要がある。
昨今の犯罪によって地域住民が児童を襲う事件も起きている。
しかし世の中の一定層いるものを排除することは不可能である。
子供に道を歩くなというものだ。
見守りボランティアをしていた人が児童殺害するからといって排除したとしても他の手段で実行される。
むしろ接点を多く持たせることで子供たち自身に危険性を学ばせ、自律思考を身につけることが将来にとっても有益となる。
世界は自分が思っているより広く、自由があることを一人でも多くの人が認識することでいじめから逃げられるようになればいいと思う。