私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

マナーと礼節について思うこと

ネットが普及していく中でセンセーショナルな事柄が注目されるのは新聞やテレビが出てきたときの批判と同じように言われている。

その中で近年特に言われるのはマナーについてだ。

マナー講師という職業が成り立ち、様々な媒体で日々新たなマナーを創造している。

こういった産業が成り立つのは求めている人がいるからに他ならない。

ビジネスパーソンが得意先や上司、部下などにより良くアピールをしたり、悪い印象を与えないようにするために見ている。

特に近年は些細なことでも炎上したり不祥事扱いされるため身を守る意味でも求められる。

目的はマナー守ることで相手に好印象をもってもらったり、できる人のように見られたいがために行われる。

しかし近年はマナーをすることが目的化しておりマナーの数は馬鹿げたほど多くなっている。

礼儀を知っているひとが煙たがられ、マナーを重んじる人ができない子に見えるパラドックスがおきている。

結局のところマナーを守るという行動自体が相手をみていない証拠でしかない。

マナーというマニュアルを使えば万人に受け入れるという幻想を信じている。

他者がみて滑稽に映るのは、人間関係にマニュアルが構築しにくいにも関わらず簡単にすがってしまうことだ。

こういった人はできない人というレッテルを暗黙のうちにはられてしまう。

 

仕事だけの関係にしろ人間関係の構築にとって真に大事なことは礼節を尽くすことだ。

相手と向き合いときには客に対しても苦言を呈する人が最終的に生き残る。

勿論おべっか使いが出世するのはどの社会でもある。

しかしそういった人は地盤がなく常に様々なことに怯えて過ごすこととなる。

出世によって収入が増えるがいつ転落するかわからない状態で居続けることとなる。

一方では礼節を重んじる人は周囲の理解も得ていることからやすやすと転落することはなく地盤は硬い。

またそういった人は他の場所に移ったとしても生きていける。

人生を肯定して過ごすことが出来やすいだろう。

結局仕事の根本部分は信頼関係で成り立っていることに変わりはなく、そこに安易な道はそのへんに転がっている数百円の情報で買えることはないのだ。