私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

障害者へのユニバーサルマナーについて

障害者や高齢者、3才以下の児童を合わせると人口の3割を超える。

実際には障害者と申告していない人も含むのでその割合4割に行くかもしれない。

これだけの人々がいるが社会において彼らに対して健常者が寄り添えていない現実がある。

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改善するためにユニバーサルマナーという言葉で視点を変えて適切な行動を促そうとする活動がある。

障害というのは目に見えないものもあり、一見健常者に見えても内臓系の障害を抱えていたりするケースもある。

健常者と同じように行動ができないが、健常者と同じ扱いをされてしまう人々もいる。

ユニバーサルマナー検定というものもあり、社会がより弱者に対して優しくなろうという運動が加速している。

年々自分とは違う考えや行動をする人がいることを意識させられる場面に遭遇することがある。

性差の問題や食品等のアレルギーに苦しんでいる人、セクハラやパワハラといったことなど他者との関わり方が難しい世の中になった。

個人主義が深化していくことで昭和時代の画一的な教育や線路に沿った生き方ができなくなっている。

そのため人々の思考や行動に多様性が生まれた結果でもある。

 

ユニバーサルマナーという言葉を聞いたときに私は一つの疑念が生まれた。

「高齢者や障害者など“自分とは違う人”の視点で考え、適切に行動する」という言葉は相手に寄り添い相手の立場になって考える習慣をつけましょうという話だ。

これは学校において相手に迷惑をかけてはいけないとか相手の気持ちに立って考えましょうというのと同じものだ。

しかし現実社会において利益を得ている人々は相手を考えずに自分の主張をする人々だ。

こういった人々のためにユニバーサルマナーを身につけた人々が奉仕させられることとなる。

適切に行動するという言葉は相手の思考を読み切り、母のぬくもりのように接することが目標となる。

母のぬくもりのように行動できた事例が評価されるのは当然とされる。

障害者に対する支援拡充となったときにいつも健常者である自分の立場について思うことがある。

健常者にしろ障害者にしろ生きていくことで不便や苦痛というものはある。

障害者だから社会はより配慮しろいう活動は、健常者だから不便や苦痛は少ないという前提に立っているように思う。

障害者が数多の利益を享受する一方で健常者が不利益を被っても当然という考えになっているように思う。

自分が健常者の30代男性である。

税金をきちんと収めて社会活動に参加している。

すでにこの時点で社会に対して貢献しているにも関わらず、社会はさらに多くのことを要求する。

女性に対して不適切な行動をしてはならない。

障害者の立場になって行動しなければならない。

高齢者が困っていたら助けなくてはならない。

パワハラ等のハラスメント行動をしてはならない。

こういったしてはならないということを守ったとしても、行動が適切でなかった場合訴えられることとなる。

電車でセクハラされた女性を助けたら、痴漢扱いされた事例や障害者を助けようとしたら拒まれた事例、高齢者に手を差し伸べようとしたら年寄り扱いするなといったことなどがある。

特に警察沙汰になった場合、健常者の特に男の立場は弱くなる。

勾留された場合、仕事や家庭を失うかもしれない。

そういったリスクを取ったとしても健常者に得られるメリットが少なすぎる。

ユニバーサルマナー拡充の一方で健常者の男の居場所がなくなり、生きづらさを感じる世の中となっている。

健常者であるから他者を助けることがさも当然であるような社会に疑問を感じる。

余計なリスクを負わされて会社や家庭を失ったときにユニバーサルマナーを得ている人々は助けてはくれないだろう。

彼らは当然のようにやり方が悪かったとかそれでは適切な行動をしていないというだろう。

他者を助けるとは本来もっと重いものだと思う。

心理的負担が軽減される一方でリスクが蔑ろにされ、みえなくなっている。

見知らぬ他者を助けるハードルがユニバーサルマナーによって逆に高くなっているように感じた。