平和を謳う連中の暴力性について思うこと
日本人の平和に対する祈念はお盆の行事に過ぎなくなっている。
お盆の行事とかぶっているので、各地で戦争イベントをする。
8月の行事は6日広島、9日長崎、15日は終戦記念日となる。
毎年同じように戦争の惨劇と将来に対する不戦の誓いをたてるが実ることはない。
世界ではあいもかわらず戦争や内戦など血が流れ続けている。
日本は戦争で人を殺すまでには至っていないが戦地に立って活動している。
平和を謳う左翼な人たちは一般人と違い行動によって平和を守ろうとする。
その行動の源泉は理想と信念である。
左翼な人たちの理想は安保闘争のような苛烈な闘争の果てに理想を達成するという絵図をもっている。
いつの時代でも大きな理想を達成する裏には血が流れている。
バスティーユ牢獄からフランス革命が始まり、共和制という理想が華開いたように左翼な人たちは憲法護憲を謳い革命が起こることを祈念している。
しかしフランス革命の後には対外戦争、内ゲバによるギロチン処刑の乱発、そして皇帝ナポレオンの誕生となった。
地獄への道は善意によって舗装されているという言葉がある。
良かれと思ってやったことが最悪の結果となって現れることは人生でもよくあることだ。
人間の頭でこねくり回せることは少ない。
知性の及ばない領域が多いことを理解していない。
平和に対する誓いをいくら立てようが意味のないことだ。
祈りを捧げる頭には聖水ではなく銃口が突きつけられる。
祈りは一種の諦めを伴っている。
ままならないことに対して、別の大きな存在を立てることで救いを求める行為だ。
戦争というままならないことに対して平和を祈る。
このことは一体どの大きな存在に救いを求めているのだろう。
戦争を起こしているのは他ならぬ人間である。
他の存在を立てたところで助けてはくれない。
人間の行動を止めるには利益、名誉、恐怖を与える必要がある。
これはトゥキディデスが戦争の原因の三要素としてあげたものだ。
しかし同時に戦争を止めることにもなる。
爾平和を欲するなら戦争に備えよ。
この言葉はどんなに科学が進歩しても通用する。
なぜなら科学技術と違い人間の本性は進化していないからだ。