私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

オリンピックにみる日本の息苦しさについて思う

 

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サマータイムがオリンピックの間だけ成立しそうというニュースが流れた。

オリンピックのために様々な便宜が図られており、ボランティアの無償参加もその一つである。

真夏の炎天下に人々をタダで働かせるという鬼畜の所業を行う様は、平和と繁栄の祭典に相応しい。

まるで学徒出陣の様相を呈している。

もしくは1936年のベルリンオリンピックか。

 

オリンピックにとどまらず目的のために他すべてを犠牲にしたがるのは日本の国民性なのかもしれない。

ブラック企業社畜という連中も仕事や会社のために他すべてを犠牲にすることを求める。

目的が絶対善であり、他は悪とでも言わんばかりに自分自身に苦役を課す。

そして他者にも同様に求める。

会社というのは戦場であるから、常に全力を出す必要があるとのたまった人がいた。

しかしその人は知らないのだろう。

兵士は戦地にいる期間を定められているし、帰還するにしても二週間から一ヶ月ほどは帰宅できない。

帰宅できない間、基地で戦友たちと戦地のと事などについて語り合う時間を設ける。

PTSD予防と一般生活に馴染む準備期間として与えられている。

 

目的のためにすべてを犠牲にするやり方が日本の閉塞感をもたらしている元凶の一つだと思う。

会社や仕事のために家族や自分を犠牲にするというのは目的を達成できた時の快感を倍増させる。

苦しく辛いこと乗り越えるという物語があるためだ。

しかし昔とは違い今はネットによって可視化されている。

苦しいことや辛いことが表面化してしまう。

犠牲にしている時点で本当はそこまでしたくないということがわかってしまった。

かつて新聞やテレビが言えば皆が従った。

常識や社会の風潮を決めていたのは彼らだった。

しかし現在は通用しなくなっている。

かつて野党が騒げば主要メディアが取り上げ、風潮を変えることができた。

しかし主要メディアがネットに変わりつつあるが野党は変わらない。

だからこそその姿は滑稽にみえるのだ。

オリンピック関連にしろ日大の問題にしろ辛いことが素晴らしい結果をもたらすスパイスだと考えている。

そういう連中が権力にいる状況が閉塞感をもたらしている。

目的以外に目を向けない視野の狭さや井の中の蛙状態であることを自覚できない世間性のなさが目立つ。

ネットによって視野を獲得した世代はそんな「世間知らずな」連中を嫌悪する。

しかし権力をもっていないため変革できない。

 

ゆとり社会人が問題とされている。

しかしこれも目的のためにすべてを犠牲にすることへの反発から来ている。

そして人間として当然の要求でもある。

なぜなら会社や仕事のために生きているわけではないからだ。

生活手段としての仕事であるし、趣味の延長といっても趣味が一つに縛られる必要もない。

人生のいくつもの目的を同時になそうとしているにすぎない。

視野の狭さは今や歳を重ねた連中の方が顕著となっている。

かつて軍事の世界ではRMA革命が人気を博した。

端的に言えばRMA革命に成功しない国は湾岸戦争イラク軍のようになると言われていた。

今の「世間知らずな」連中もイラク軍のように戦える状態ですらないのだと思う。

彼らが引退することが閉塞感打破の一歩となるだろう。