レイシズムについて思う
今年に入ってから特に感じることがある。
差別的な発言をやり玉にあげて批判し、撤回させる動きが強まっている。
例えば中国や韓国についての話題は批判にさらされたり、youtubeではアカウント停止や削除にまで発展している。
ネットではなんJによる通報騒ぎとして取り上げられている。
奥山真司先生がオーストラリアでサイレントインベージョンが進行していることを番組内で何度も取り上げている。
スタンダードジャーナル2 The STANDARD JOURNAL 2(スタンダードジャーナル編集部) - ニコニコチャンネル:社会・言論
国内でも右翼や左翼がそれぞれ非難合戦を行っており、互いの正義を押し付け合う光景がより鮮明になってきた。
批判を恐れるがあまりに少数派の極端な意見や批判を受け入れることでものを言えない社会がある。
先進国を覆っている閉塞感の正体のひとつに批判に臆するがあまりに何も言えない状況がある。
例えば結婚したら子供をたくさん作って欲しいと政治家がいえば批判される。
子供を生むことができない人やLGBTといった人たちをないがしろにしているといったことや古い価値観を押し付けることがけしからんと言ったことで批判するのだ。
とはいえ現在の日本で少子高齢化は問題である以上、子供をたくさん生んでもらうのは理にかなっている。
とはいえ何かを言えば必ず反対の意見が出てくるのは健全な世の中であると自分は思う。
なぜなら独裁制では反対の意見すらないのだから良い社会だと思う。
またどんな意見にも反対する人は一定数いるのは世の常でもある。
だがネットによって批判する声がより大きくなった。
沈黙の螺旋を例にあげるまでもなく批判の声は賛同の声より大きい。
人は元来ネガティブないきものであることを考えれば当然である。
しかしそのことを利用し、自分たちにとって政治的環境をよりよくしようとする動きもある。
例えば中国共産党による経済を背景にした侵食も該当する。
経済依存を増長しメディアを買収して、自らにとっていいことを宣伝したり都合の悪いことを批判することは古来よりどの国でも展開されてきた。
それと合わせて留学生が大学自治を利用して政治的主張を展開したり、ネットで都合の悪い動画を削除要請したりすることも起きている。
また企業のツイッターやフェイスブックに大量に批判や謝罪を求めたりする書き込みをするなどすでに多くの国で起きている。
その結果何も言えない社会が到来しつつあるような気がする。
ネットによって個人はより多くの情報や社会にアクセスできるようになった。
90年台ではネット上に国境がなくなる統一した世界というものができると考えていた人もいた。
また政府がすべての情報を膨大であるがゆえにコントロールできないといった考えもあった。
しかしスノーデンに端を発して政府が膨大な個人情報を収集し、分析できることが判明した。
また中国が最も有名であるが、グレートファイアウォールの構築によって瞬時に切り離しができるようになっている。
ネットも国家の枠組みを超えることができなかったのだ。
そして影響は企業や個人にまで及び夜警国家への道を歩みつつある。
皮肉なことに独裁国家よりも民主主義国家で進捗している。
自由を尊重し、リベラルであろうとすれば独裁や夜警国家へ進むというパラドックスが起きている。
企業も万人に好かれようと思うがゆえに個性や新しい価値観を提供できなくなっている。
結果として無難な同じような商品を販売するしかなくなっている。
例えばsonyのウォークマンが発売されたときは、新宿をローラースケートにヘッドフォンをつけた人を走らしたりしていた。
sonyは新しい価値観を提供することに成功した。
しかし今同じことを行えば安全対策や危険行為として批判にさらされるだろう。
世界が情報革命によって小さくなった。
しかし小さくなった弊害として瞬時にあらゆる批判までもが撒き散らされるようになった。
そのため批判を恐れば何もできなくなる社会がこのままでは強化される。
脱するためには自らの価値観を信じて、社会と対話をしていくことしかないと思う。
この批判に臆する状態というのはチャンスでもある。
誰もがコンプラだの騒いでいるときに、ギリギリを攻めればヒットを生み出すこともできる。
ギリギリを攻めるには時代の流れを感じ取ることが必要だ。
何を求めているのかというニーズを掘り起こすこと。
これはさまざまなビジネス書でも言われて陳腐化している。
いつの時代でも成功する法則はさほど変わらないのだ。
なので自分はせめてこのブログだけでもいいたいことを言おうと思った。
批判する多くの人間は対案すらださないのだから気にする必要がない。
素晴らしい価値観であるほど批判はでてくるものなのだから。