私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

少女連れ去り未遂から思うこと

仁藤 夢乃 - ‪今日の14時半ごろ、渋谷から山の手線に乗っていたら、私の前を6歳の女の子が通り過ぎた。そのあとすぐ、... | Facebook

急に人気エントリーに3つも入っていたのでみた。

彼女の行動自体は称賛に値する者であり、記事だけをみるなら周りの男どもの不甲斐なさと世間の冷たさに心が痛む事件である。

連れ去られようとしていた少女に声をかけて、犯人の前でもかばい続けることは誰にでもできることではない。

周りの助けも得られずさぞかし心細かったと思う。

 

しかし性格の歪んだリアリストからみると、周りの助けを得られないのは当然だと思う。

近年痴漢や犯罪に巻き込まれた人を助けた人が疑われたり、犯罪者扱いされる事件が頻発している。

危険と思い子供に声をかけたら防犯ベルを鳴らされたとか、痴漢の冤罪で裁判になるなど個人が背負う社会コストが高くなっている。

セクハラの定義もあるが、セクハラ認定された段階で社会において居場所がなくなる。

セクハラの定義とは何か?セクハラ認定される言動と行動一覧 | 労働問題相談所

性的な言動等細かい定義はあるものの、第三者に認知された段階で無意味なものとなる。

裁判に勝とうが失った信頼は取り戻すことができない。

眼の前で子供が連れ去られようとしている状況に出くわしたとして、助けた場合のリスクが上記のことを考えると高くつくこととなる。

助けたはずなのに自分が疑われる可能性もあるからだ。

そして性犯罪者扱いされたら社会的に破滅する。

また近年は無敵の人が増加している。

自分と対峙した相手が刃物等を持っていた場合殺される可能性もある。

だからこそ新幹線で対峙して亡くなった人は称賛されるのだ。

そして希少だから称賛され、注目される。

その背景には数多のできなかった事例がある。

今回もその一例となるだろう。

 

助けなかった人たちも批判をされる言われはない。

なぜなら彼らにも守るものがあるからだ。

会社での地位や自分自身もあるだろう。

それ以外にも家族であったり、自分の子供も含まれる。

自分が他者を助ける過程で殺されたりしたら、残されたものはどうするのかという問題もある。

社会は称賛するだろうが、残されたものには意味のないものだ。

失ったものは取り戻せないのだから…

社会としては助けるのは道徳的にみて正しいこととなる。

しかし個人としては助けないほうが、自分たちの幸せを守ることとなる。

これは70年以上憲法9条のおかげで平和を保ち続けているといっている連中と同じだ。

周辺では戦乱が常にあるのに、具体的に助けもせずに自分たちは平和を享受しているのと一体何が違うというのだろう。

連れ去り事件の現場において最も必要とされたのは物理的な力の誇示である。

これは紛争地帯を平和にするのにも同じことである。

武力は平和をもたらすことがあるという事実を無視した結果起こったことである。

 

話がだいぶズレた。

助けなかった人たちにも生活がある。

眼の前の人を助けようとすることで支払うコストが高すぎることに問題がある。

冤罪や助けた人を踏みにじるような行動によってコストが増大している。

警察や司法までもが協力して、特に男性に圧力をかけている。

リベラルが女性の人権を唱え、権利を拡大するのはいいことである。

しかし過剰に主張することで何かをすれば犯罪者のような扱いをされるとわかっているならばわざわざ助けようとしないだろう。

特に小学生等に声をかけるだけでも犯罪者扱いとなる今ではなおさらだ。

しかし犯罪が起きるその時は助けてくださいというのは虫のいい話だと思う。

仮に少女を助けた人が男性であった場合、少女の反応は違ったものになるだろう。

少女からみれば危険人物が2人に増えたと錯覚することとなる。

仮に犯罪者を追い払ったとしても、助けた人が犯罪者扱いされることは目に見えている。

また助けた女性が3人組に声をかける前に、男性が助け舟を出したとしても必ずしも好意的に受け取られないだろう。

服装等があやしいと思われれば、犯罪者が2人に増えたと思われる。

例えば汗っかきのメガネをかけたデブやひょろりとやせ細ったいかにもオタク風情であればそう思われても仕方がないと思う。

まぁ犯罪者が2人になると思わなくても、信用できるかといったことや助けた後の対応がどうなるかは未知数だ。

助けた後のことまでコストを考えなくてはならないならば、助けない選択肢を取るのはありだと思う。

これから子供を持つ親はさらにコストを強いられるだろう。

子供の送り迎え等、いつ発生するかわからない犯罪に対応するのは大変である。

そして同時に人々に「人を見る目」がないのも顕著になったと思う。

誰に声をかけたら助けてくれるかといった人から得る情報を読み解く力が弱くなっている。

男性だから助けてくれる。

駅員だから助けてくれる。

わけではない。

助けるか否かは「その人」が決めるのだ。

緊急事態のとき、助けてくれるのは携帯電話ではなく、人を見る目である。