こどものネットといじめについて思う
以前にも書いた気がするが気にせずに書こうと思う。
学校にとどまらず社会というのは一種の監獄であるというのはフーコーの言であった。
特に子供にネット環境を与えてから監獄の環境は劣化している。
インターネットというのは世界を小さくした。
情報が瞬時にやり取りされ、今までは写真や映像というのも物体に変換され郵送されていた。
しかしご承知の通り今では写真も映像もケーブルによって電気信号へ変換されることで時間的制約から開放された。
昔は公園にエロ本が落ちていて、こっそり家に持ち帰るという楽しみはなくなった。
自宅にいながらネットからいくらでもダウンロードできる時代へと変化した。
ネットへつながる子どもたちは昔では知りえないたくさんの情報にふれることができるようになった。
適応できれば素晴らしい人材が多く排出されることになる。
なぜなら学校でわからないことでもネットなら詳しく解説してくれるサイトはいくつもある。
塾に行かなくてもネットでも塾に通うことができる。
しかしこういったことは昔から通信教育や放送大学等いくつもあった。
今こどもたちは家に帰っても友達とつながっていなければならないのだ。
子供というのは自我の構築途中であり、自他の境界線が曖昧な存在である。
そんな年頃の子供が四六時中誰かと繋がり続けているのは多様性の喪失と自我の構築を途中で放棄することになる。
そのため他者とつながることに対する抵抗感と免疫が低下することになる。
よってグループ内での排除されることに対する心理的なダメージと喪失感は以前の比ではなくなる。
なぜなら被害者にとって常に繋がり続けているグループからの排除は自己の喪失と同義語になりかねない危険性をはらんでいるからだ。
だからといってネット環境を与えないというのは極端な対策でもある。
自分の話になってしまうが、子供の頃カードゲームや携帯といったものを買えないことがあった。
親が貧しいからというのがすべての原因でもあった。
友達が楽しそうにしているのをいつも横で眺めていることしかできなかった。
それでいじめにはあわなかったが、ずいぶん寂しい思いをしてきた。
自分には同年代が共有している話題に入っていけない。
アニメもゲームもいつも遅れて情報が入ってくることから乗り遅れたり、買ってもらえないためわからないまま時が過ぎ去っていった。
そういう経験が自我の形成に大いに役に立ったのかもしれない。
しかしそれは寂しい記憶であり、自分と他者の相違というものが生まれた家庭によって成り立つというのも本来違う。
またその結果として今ではゲームやネットに依存し、高校、大学とアニメ漬けの毎日を過ごすことになった。
ネット環境を与える代わりに親がその危険性と逃げ道を教える必要がある。
古来のやり方で毎日学校で何があったのを話してもらうことで、ときたま携帯を一緒に見ながら友達とのやりとりをチェックしたりできる。
またネットの危険性については親がブロックを強制的にするだけではなく、子供にも何故そうしたかを説明する必要がある。
現代においてブロック解除法なぞ検索すればいくらでも出てくる。
子供は駄目と言われたら突破したくなるものだ。
特にネットを与えるときと話題にするときは大人として扱うことが必要となる。
大人は自制心があることを示すことができれば、子供も大人と同じようにしようとするだろう。
自分を一人前として扱ってもらえれば子供も期待に答えようとするだろう。
現代社会では共働きが一般的である以上、大人が目に届かないところが多くなる。
そのためモラトリアムの期間は延びたが、子供は昔より早く大人になる必要があるのかもしれない。