私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

哲学者というどうしようもない連中

よく哲学系の本を読む。

自分の興味が政治哲学や戦争哲学といったものに波及するためだ。

しかし哲学者という連中が好きになれない。

以前読んだ本「ヨーロッパ思想を読み解く: 何が近代科学を生んだか (ちくま新書)」ではイギリス哲学が好きなったが、ドイツ哲学というのもは大嫌いである。

それは哲学者が本を書くときに行間に自分の知性をひけらかすところにある。

自分はこんなにものを考えられている。

自分はリヒテンシュタインを理解できている。

こんな難しいことを自分は解説できている。

こういったことが行間を埋めている。

読みにくい挙句に不快すら覚える。

基本的に上から目線である。

また一つのテーマを語るときにいろんなところに話を広げまとめない。

そして最終的には哲学は結論を出すことではなくその思考が大切とのたまう。

ゴミの量産をかくも正当化できることに驚愕する。

もちろん結論を出すことだけが知識でないことは理解している。

そもそも世の中の多くの問題には明確な回答はないし、複数の回答があるのが常だ。

しかし哲学者という連中はマスコミと同じ匂いを感じる。

それは自分が中立公平であるという自意識過剰だ。

哲学者自身は中立公平を否定するのでマスコミより程度はマシだ。

しかしマシなだけであり不快であることに変わりはない。

とくにドイツ哲学やフランス哲学というのはゴミを撒き散らし愉悦に浸っている連中なのだ。

本質からはずれた議論をひたすら行い、かくも哲学が崇高であるように擬態する態度は学者という立場から見ても不適格だ。

哲学はほとんどイギリスによって確立できている。

ある程度解決したことを重箱の隅をつついて遊んでいる連中とその取り巻きどもが不快である。

言葉を重ねることは誰にでもできる。

そして本当に至高な表現は常に簡潔である。

スマートさこそ哲学を輝かせると思う。