私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

マッサージに行って人間の骨格について思うこと

体が硬直しているのが酷くなったので、マッサージに行った。

担当者は体を触りながら「ここも硬いですねぇ」を施術中ずっと言っていた。

普段歯を食いしばる癖があり、パソコンを使う仕事なので至るところが硬直していた。

結局ほぼすべてのところが硬直していた。

転職後の疲労や神経を使い続けていることなどによる硬直である。

定期的に体を動かしていれば防げるが難しい。

 

かつてウサイン・ボルト世界新記録を出したとき、解説者がチーターのように美しいと讃えていた。

しかし大学教授曰く、チーターとはまるでにつかわない程醜いと酷評していた。

人間は直立姿勢である。

直立姿勢なのは足2本で歩行することで手を使うことようにするためだ。

あくまでも目的は手を自由に使えるようにするために、直立姿勢に進化したと言っていいた。

そのため走って獲物を捕まえることに特化したチーターの機能美にはウサイン・ボルトに限らず人間は太刀打ちできない。

ナショジオ等でチーターの動きをスローで見れば、人間の走りとの機能美の差は一目瞭然である。

 

手を自由に使えるために進化したのが人間である。

しかし重いものを運べば腰を痛め、パソコンを使えば肩から背中がこる。

人間の骨格は欠陥が多いと思った。

縄文時代から考えれば1万年くらい経つ。

パソコンはともかく、重いのを運んだり、屈んで仕事をしてきた。

それに特化したように進化しても良かったのではないかと思う。

西洋では特に人間は万物の頂点にいるように思っているらしい。

しかし人間ほど環境に適応できない生物は珍しいと思う。

適応できないから、自然を自分たちの都合のいいように変えてきた。

そして社会を構成した。

 

これからさらに社会が発展し、考えられないような技術によって生活が営まれると思う。

しかし人間の体である限り、制約があり続ける。

また社会も体によって制約し続ける。

思想や常識というのも人間の体に収まっている限り、制約がある。

とりとめのない話となったが、肩こりから開放されたいと思う。

学校にエアコンがないことについて

自分の仕事はエアコンの保守も含んでおり、前職は冷凍機屋だった。

前職の相手は食品であり、冷凍機が故障すれば店舗にある商品が売り物にならなくなる。

商品自体の損害もあるが、何よりお客様が商品を購入できない機会コストの方が重視されている。

お客様はその店で3回目当ての商品がないと思うと店を変えるという話もある。

よって見えないが、重要な仕事である。

今はビル空調も担当している。

先週ビルの全体空調を司る機械が故障信号を出して停止した。

今のビルは高気密型のビルなので窓が開かない機構となっている。

よって空調機が停止すると、部屋内部の温度はOA機器、照明、人体の発熱と窓からの日射しや外気温が壁を伝って侵入する熱によって当然上昇する。

室内温度は35度付近まで上昇することとなる。

ユーザー窓口の担当者から電話が鳴り止まず、修理業者はなかなか来ることができずビル内は阿鼻叫喚の騒ぎとなる。

 

一方学校では35度付近の室内環境下で机に座って勉強している。

テストや将来のために先生の言うことや書いたことをノートに必死にとったりする。

また体育では炎天下の中適度な水分補給や塩飴も食べさせない劣悪な環境下で授業をしている。

工事現場の監督であれば顔が青ざめるほどの環境が学校にはある。

炎天下の中で仕事をさせるには近くにエアコンの聞いた避難所や車をおいておくのは当然である。

仮に熱中症で倒れた場合、速やかに体を冷やすためでもある。

また普通に考えれば炎天下の中で仕事をしている人間は誰しもエアコンで涼みたいと思う。

休憩はこまめにとり、仕事場の近くには必ず水筒をおいておく、仕事中にいくら飲んでも誰も文句は言わない。

 

仕事中に熱中症で倒れたりしたら労働災害となる。

医療費は当然会社持ちとなる。

是正報告書や元請等への謝罪など事件となる。

学校で倒れたらどういう扱いとなるのだろうか。

自尊心の低さと能力について思う

平成が終わろうとしている。

この時代において4人の核家族という形態が一般的でなくなりつつある。

またマイカーやマイホームをもつとなるとさらに希少性が増すことになる。

結婚や恋愛ができない中年を指して平成ジャンプとまで言われている。

全体の平均年収は低下の一途をたどり、年収400万円あればいいという状況まできている。

多くの人が昭和時代に一般的になった上記形態について歴史上特殊であったとか、今はそういう時代ではないと言っている。

しかし怨念のようにネットを漂っている。

 

自分もそういった人間の一人だ。

とはいえ名前だけは知られた大学を出て、中小ではあるが正社員で就職し、一時期車も所有していた。

会社では評価が高く、将来は課長だ支店長だという話も何度も出ていた。

今の時代では結構恵まれた立場にあったと思う。

しかし自分には生まれてこの方彼女がいたことがない。

強烈なまでのコンプレックスを有している。

どんなに人間性に問題があろうが、非正規社員だろうが、Fラン大学や高卒であったとしても、彼女がいる人間は自分よりはるかに上位の人間だと思っている。

人間は社会性をもった動物である以上、一人では生きていけない。

だれかと関係性を構築しなければ生きていけないのだ。

そういった点において彼女がいる人々は何歩も先を行っている。

彼らは周囲と良好な関係を構築しやすく、また嫌われたとしてもそういったキャラということで受け入れられやすい。

しかし自分には彼女がいない。

そのため自分は別の方面で有能さを示さなくてはならない。

真面目さをアピールし、仕事に熱心に取り組み、成果をあげる。

なんども理不尽なことを言われても受け入れるしかなかった。

なぜなら対人関係において欠陥品である自分は躱す術をもっていなかった。

仕事上のいろんな知識を吸収し、仕事において皆に信頼される人物となった。

しかし結果は体に極度の負荷をかけすぎて潰れた。

 

転職して気づいたが、仕事上でどんなに成果をあげようが、必要とされようが意味のないものだと。

所詮は便利な人どまりなのだ。

いわゆる「いい人」どまりでしかない。

自分は自尊心が低いがためにこれだけのことができたという思いがある。

誰よりも仕事を頑張った。

そして能力を示すことができた。

それは今の仕事でも発揮されている自分の財産ともなっている。

しかし所詮「いい人」でしかない。

仕事をしすぎたせいで感情という機能が極端に低い水準で留まっている。

対人コミュニケーションも同様である。

すべてが仕事を中心に回っていたため人との一般的な交流に難があるのだ。

雑談と言ったようなことや共通の話題、趣味の話というのもない。

特に異性はどうにもならない。

一般的に言われている恋愛ノウハウを駆使したとしてもどうにもならない。

人の心が自分から離れていく感覚を何度も味わった。

 

自分は今猛烈な喪失感を味わっている。

仕事と孤立した趣味以外なんにももっていないことに喪失感を覚えている。

他者とのつながりがなく、孤立したまま老いていく恐怖、人とのつながりがなくなる喪失感。

虚無感といってもいい。

人は何かを成し遂げると自信がつくという。

確かにそのとおりだが自信にもいくつかある。

マズローの欲求の5段階と同じように自信にもそれぞれの階層に応じた自信というものがある。

また仕事なら仕事の類似性によっても自信が分かれている。

そのため例えば仕事でどんなに自信をもったとしても対人関係の自信がなければ砕け散ることになる。

自信は根源的な欲求が満たされ、獲得し続けられるという状態を経て自信を持つようになる。

では対人関係で駄目な場合はどんなに上位階層で自信をつけようが基礎が腐っているためたちまち倒壊するのだ。

人生にはやっておく順番というものがある。

それに失敗すると一生苦労することになる。

学生時代に恋愛できていた人は苦労が少ないだろう。

結局人間は社会性の動物である以上他者との関わりなしには満足に生きることができないのだ。

オウム真理教教祖死刑執行から死刑制度について思うこと

オウム真理教の教祖に対して死刑が執行された。

メディアで大騒ぎとなっており、今でも報道が続いている。

オウム真理教がおこした事件は今の日本でもインパクトがある。

特に地下鉄サリン事件は2018年現在、世界中のどの国でも対策ができていない。

地下鉄の構造上の問題に起因しており、化学兵器テロの脅威を再認識させられた事件でもある。

当然今でもテロ対策関係本では教科書的な扱いを受けている。

当時の日本では終末思想等、いろんな思想が流行っていた。

アニメの世界でもこれから発展するネット社会に対して、大真面目にネットの中では人格が保持できるか否かが議論されていた。

世界的にはソ連が解体したことで民主主義の勝利を歌っていたが、拡散される核の脅威等によって世界がどうなるかなど議論があった。

日本では新興宗教がいくつもメディアに登場して世間を賑わしていた。

 

語るのが難しいが、とはいえ今回7人の死刑が執行されたことでここまで大騒ぎとなるのも思えば変な話だと思う。

 平成という歴史が終わりつつあるときの風物詩として記録されるだろう。

しかし死刑を廃止することを訴えたりする理屈が不明である。

この国では年間3000人以上の人が交通事故でなくなる。

また自殺者数は年間2万人を超える。

この人々に対する報道より大きな報道がされている。

これだけで死刑の目的である見せしめの効果が十分にある。

 

死刑廃止論というのはかつての見せしめの刑罰執行に抑止がきいていないことが前提として始まったと思う。

犯罪抑止の観点より社会復帰を目指すやり方は以前話をした。 

しかし死刑を無期懲役にして一体どんなメリットがあるのか不明だ。

刑罰は法の適用を通じて行われる権力による見せしめである。

この理屈にたてば死刑の方が見せしめとしての効果がある。

当然今までの死刑廃止論の抑止がきいていないことへ反論できていない。

だが犯罪者を更生し、社会復帰させることも犯罪抑止を狙った見せしめといえる。

問題となったのはあくまでも広場に人を集めて行われる刑罰執行であり、見世物としての効果が現れたことによる。

 

現在、死刑は手順に則り非公開で執行される。

公開しないことで、恐怖に訴えることもできる。

誰にも見られることもなく、規則に則り執行されるという人間味ない行為こそ抑止効果があると思う。

また死刑囚を無期懲役で刑務所に入れておくにも多額の税金が投入される。

誰しもが過去の犯罪をずっと覚えていられない。

閉じ込め続ける意味はない。

死刑執行によって法秩序が保たれている証明ともなる。

 

人間が人間を殺すことはいかなることでもいけないという理屈もある。

だが私はそう思わない。

そういった考えの人間の思想の自由は保証されないのだろうか。

世界には死刑廃止国とそうでない国がある。

わざわざどちらかに合わせる必要はない。

なぜなら法律は国家が制定するだからだ。

当然国ごとに差が出てくる。

世界を一つの法で縛るには、人類は到達できていない。

それはEUの分裂や多極構造化している世界をみれば明らかだ。

いかなるときも人を殺してはいけないという基準を人に押し付け、制度をそうしようとしている。

殺人は存在しないということを見せることで抑止しよとしている。

しょせんは想像力の欠如した机上の空論でしかない。

なぜなら何かを成し遂げたり、守りたいということで人を殺めるのだからなくすことはできない。

少女連れ去り未遂から思うこと

仁藤 夢乃 - ‪今日の14時半ごろ、渋谷から山の手線に乗っていたら、私の前を6歳の女の子が通り過ぎた。そのあとすぐ、... | Facebook

急に人気エントリーに3つも入っていたのでみた。

彼女の行動自体は称賛に値する者であり、記事だけをみるなら周りの男どもの不甲斐なさと世間の冷たさに心が痛む事件である。

連れ去られようとしていた少女に声をかけて、犯人の前でもかばい続けることは誰にでもできることではない。

周りの助けも得られずさぞかし心細かったと思う。

 

しかし性格の歪んだリアリストからみると、周りの助けを得られないのは当然だと思う。

近年痴漢や犯罪に巻き込まれた人を助けた人が疑われたり、犯罪者扱いされる事件が頻発している。

危険と思い子供に声をかけたら防犯ベルを鳴らされたとか、痴漢の冤罪で裁判になるなど個人が背負う社会コストが高くなっている。

セクハラの定義もあるが、セクハラ認定された段階で社会において居場所がなくなる。

セクハラの定義とは何か?セクハラ認定される言動と行動一覧 | 労働問題相談所

性的な言動等細かい定義はあるものの、第三者に認知された段階で無意味なものとなる。

裁判に勝とうが失った信頼は取り戻すことができない。

眼の前で子供が連れ去られようとしている状況に出くわしたとして、助けた場合のリスクが上記のことを考えると高くつくこととなる。

助けたはずなのに自分が疑われる可能性もあるからだ。

そして性犯罪者扱いされたら社会的に破滅する。

また近年は無敵の人が増加している。

自分と対峙した相手が刃物等を持っていた場合殺される可能性もある。

だからこそ新幹線で対峙して亡くなった人は称賛されるのだ。

そして希少だから称賛され、注目される。

その背景には数多のできなかった事例がある。

今回もその一例となるだろう。

 

助けなかった人たちも批判をされる言われはない。

なぜなら彼らにも守るものがあるからだ。

会社での地位や自分自身もあるだろう。

それ以外にも家族であったり、自分の子供も含まれる。

自分が他者を助ける過程で殺されたりしたら、残されたものはどうするのかという問題もある。

社会は称賛するだろうが、残されたものには意味のないものだ。

失ったものは取り戻せないのだから…

社会としては助けるのは道徳的にみて正しいこととなる。

しかし個人としては助けないほうが、自分たちの幸せを守ることとなる。

これは70年以上憲法9条のおかげで平和を保ち続けているといっている連中と同じだ。

周辺では戦乱が常にあるのに、具体的に助けもせずに自分たちは平和を享受しているのと一体何が違うというのだろう。

連れ去り事件の現場において最も必要とされたのは物理的な力の誇示である。

これは紛争地帯を平和にするのにも同じことである。

武力は平和をもたらすことがあるという事実を無視した結果起こったことである。

 

話がだいぶズレた。

助けなかった人たちにも生活がある。

眼の前の人を助けようとすることで支払うコストが高すぎることに問題がある。

冤罪や助けた人を踏みにじるような行動によってコストが増大している。

警察や司法までもが協力して、特に男性に圧力をかけている。

リベラルが女性の人権を唱え、権利を拡大するのはいいことである。

しかし過剰に主張することで何かをすれば犯罪者のような扱いをされるとわかっているならばわざわざ助けようとしないだろう。

特に小学生等に声をかけるだけでも犯罪者扱いとなる今ではなおさらだ。

しかし犯罪が起きるその時は助けてくださいというのは虫のいい話だと思う。

仮に少女を助けた人が男性であった場合、少女の反応は違ったものになるだろう。

少女からみれば危険人物が2人に増えたと錯覚することとなる。

仮に犯罪者を追い払ったとしても、助けた人が犯罪者扱いされることは目に見えている。

また助けた女性が3人組に声をかける前に、男性が助け舟を出したとしても必ずしも好意的に受け取られないだろう。

服装等があやしいと思われれば、犯罪者が2人に増えたと思われる。

例えば汗っかきのメガネをかけたデブやひょろりとやせ細ったいかにもオタク風情であればそう思われても仕方がないと思う。

まぁ犯罪者が2人になると思わなくても、信用できるかといったことや助けた後の対応がどうなるかは未知数だ。

助けた後のことまでコストを考えなくてはならないならば、助けない選択肢を取るのはありだと思う。

これから子供を持つ親はさらにコストを強いられるだろう。

子供の送り迎え等、いつ発生するかわからない犯罪に対応するのは大変である。

そして同時に人々に「人を見る目」がないのも顕著になったと思う。

誰に声をかけたら助けてくれるかといった人から得る情報を読み解く力が弱くなっている。

男性だから助けてくれる。

駅員だから助けてくれる。

わけではない。

助けるか否かは「その人」が決めるのだ。

緊急事態のとき、助けてくれるのは携帯電話ではなく、人を見る目である。

高級品を持つことと人の器について思うこと


現代ホスト界の帝王 4000万のロールスロイス納車。「ROLAND-完全密着- vol.017」 [KG-PRODUCE]

4000万円というのは高額過ぎるが、高みを目指そうとしている人は共通して高いものを買う。

泊をつける意味合いや退路を断つということで買うのだ。

 

間違えて編集途中のを投稿したので追記します。

 

いいものを身につけると、理想像になれるという話がある。

背伸びして買ったものに自分がフィットするように動くということだ。

子供がなんでも背伸びしたがるのとかわらない理屈なので、結構真理をついていると思う。

人生のいくつもの地点で、成長をしなければならないといった要求をされる。

自分自身がそう思うこともあるし、周りから暗に要求されることもある。

その時手っ取り早く成長するには高額商品を身につけることだ。

とはいえただ買えばいいわけではない。

自分がこれだと思った商品でなければならない。

人から勧められたから買うのでは、その人に近づけても理想には到達できない。

 

商品を選ぶ際に理屈や機能を優先させる人がいる。

しかし理屈や機能は選んでから考えることだ。

高額商品は欠点があることが多い。

それは個性を出した代償でもある。

車で機能だけに限れば、中古車でことは足りる。

安全性や車で移動する事等値段と合わせれば軽自動車でもいい。

クラウンやレクサス、外国車を買う理由はない。

 

自分は昔スバルのレガシィB4に乗っていた。

新しい車がほしいと思っていたのと、大人になったらいい車に乗るという義務のようなものがあったから探していた。

トヨタや日産、アウディアルファロメオ等いくつもサイトを巡って探していた。

スバルに行き着いたのは一通り探し終えてからだった。

スバルは国産車でもマイナーメーカーだ。

スバリストという名の変態共がこぞって乗っているのがスバルだ。

正直車を見るまでいいものはないと思っていた。

マイナーであるから車種も限られており、内装等も劣っていると考えていた。

しかしレガシィを見たときに衝撃が走った。

これがほしい!という強烈な感覚を味わった。

とはいえ定価400万円の代物なのでそう簡単にかうわけにもいかない。

スペック等他車種と見比べたりしたが、所詮は理由付けに過ぎなかった。

かくして変態共の仲間入りを果たしたわけだが、仕事にもやる気が入った。

車を維持するために3日間貫徹したり、様々な人間からなじられたりしても仕事をやめようとはあまり思わなかった。

なぜなら仕事をやめたら車を維持できなくなるからだ。

しかし転勤を期に事態が一変した。

駐車場が月2万円という高額な場所に住むこととなったため、車が維持できなくなった。

思えば転換点だったのだ。

車をとるか、仕事をとるか悩んだ。

とはいえ将来役職者になれるという道があった。

今の時代、将来像を描きにくくなったのにもかかわらず自分の前には将来像があった。

結局、車を手放した。

そして1年ほどたって仕事も手放してしまった。

 

転職して新しい仕事にもなれてきた。

とはいえレガシィのような高いものをもっていない。

そのため自分が小さくまとまっているような気がしてならない。

高いものを持てばおおきくなるわけではない。

だが、そういった気がするだけでも効果はある。

自分が本当にいいと思ったものは手放してはならないと思った。

今度手放すときは仕事を辞めてみようと思う。

 

サッカー日本対ポーランド戦から日本のサッカーについて思うこと

日本がボールを回し続けて選手交代を妨害、仕方なく座り込むポーランド選手、もう地獄絵図だったよなw : 大艦巨砲主義!

スポーツは好きではないので今回のサッカーも全く興味がなかった。

とはいえ今回の日本代表のレベルが以前より低下しているような話は入ってきた。

ポーランド戦で勝てばベスト16位という状況で日本は後方にてパスの連続だったらしい。

観客からブーイングがでている中試合終了とのことで今日まで色んな人が賛否を投げかけている。

以前から思っていたが、日本のサッカーは1位を取りに行く戦い方ではない。

点数をいちいち数えて狡猾に動き回っている連中が天下をとれるわけはない。

そもそも勝ちに行くという気概がない以上、今の日本の目標は1位ではないことは明白だと思う。

毎回試合のたびにコンスタントにベスト16位にはいる。

これが今の日本のサッカーの目標となっている。

後半の試合運びはベスト16位に入るという目標なら問題はない。

しかし将来的に1位になりたいと思うなら、積極的に動くことを求められる。

どんな相手でも正面からねじ伏せるくらいの力量がなければ日本は1位になることはない。

次はベルギー戦らしいが勝利は無理だろう。

目標を達成した日本は腑抜けているから負けるだろう。

 

毎回日本は自分たちのサッカーという謎の教義にこだわり続けている。

でかい口を叩く割にはベスト16位どまりで、ときたまベスト8位に入る程度である。

投入したコストに対するリターンが少なすぎるような気がする。

全国でサッカークラブが数多あり、そこから排出される数多の選手から選ばれたのが11人というのはどうなのとは思う。

レベルが低い選手が選出されるということは全体のレベルも低いことに他ならない。

サッカーの練習をどうしているのかは知らないが、全体のレベルを向上させない限りこれ以上の成長はないだろう。

サッカーに限って言えば田舎の中堅高校レベルのような精神状態ような気がする。

今の自分達の実力ではベスト16位程度だろうという目測で勝利を目指している。

絶対に1位にはなれないという諦めのような雰囲気を感じる。

まったく興味のない人間がみてもそうみえるのだから、知っている人たちは余計に感じることだろう。

1位を目指すこともしないような連中の試合を見て、一体何が面白いのか自分には理解できない。

 

どのスポーツにもいえることだが、所詮は娯楽でしかない。

観客を楽しませて、会場に足を運んでもらう。

またグッズを購入してもらって収益化している。

1位を目指すにしろ、16位を目指すにしろ娯楽である以上観客を楽しませることが第一である。

その上でより高みを目指すことが求められている。

そうでなければ多額の資金を投入して運営している必要がない。

1位になったからといってその団体や選手たちにはリターンがある。

しかし提供している企業は広告収入以上のメリットはない。

企業は提供を通じて、観客に楽しんでいただき企業の認知やプラスイメージを植え付ける効果を狙っている。

娯楽である以上選手や監督たちは観客に楽しんでもらうサッカーをすることが求められる。

それはボール回しの曲芸ではなく、ルールの中で勝利をどうどうと勝ち取る姿勢だと思う。

そういったひたむきな姿勢や態度が観客の心を掴む。

日本のスポーツ界全体にいえることだが、頑張ったから偉いという小学生のような理屈が平然と通る。

ベスト16位で敗退したとしても頑張ったから偉いという評価となる。

頑張ったは選手たちが感じることではあるが、偉いという評価は当たらない。

協賛企業や観客達は楽しみたいのだ。

「自分たちのサッカー」という教義の中身がぶれており、中身がないため毎回いいわけのようなことばかり言っているように聞こえる。

毎回のように課題と何かの成長というワードを入れてくる。

しかしプロの世界は勝ち以外は無に等しい世界である。

勝ちか負けかという厳しい世界に身を投じている以上、批判や指摘は常にある。

それが可愛そうだの努力しているという指摘はプロに失礼である。

これはスポーツだけではなく、一般企業で働いている人たちにもいえることだ。

結果を残さなければ企業は立ち行かなくなる。

成果を常に求められるのはどんな企業でもある。

スポーツだけが例外ではないということがわからないというのが、如何に閉塞したコミュニティであるかがわかる。

全体を俯瞰し勝利を求め続ける姿勢がない以上、見るだけ無駄なような気がする。