私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

日本の空母に思うこと

 

「空母」運用機を本格検討 短距離離陸のF35B導入 - 共同通信

空母より通常兵器の投射能力を強化するべき

2017/12/25 09:18

 

日本の防衛計画は明治維新以降常に正面装備を充実させることに拘泥してきた。

海軍は特に酷く戦前では実現不可能な88艦隊計画や超大和型戦艦等いくつもの計画を提出し政府予算を圧迫した。

その結果日本の基本工業力は低いまま対米戦へ突入した。

優れた兵器を設計しても実現させる工業力がなかった。

誉エンジン等の不幸により、戦後JIS規格の策定等の結果基礎工業力の向上が図られた。

しかし防衛省となった現在でも昔ながらの正面装備へのこだわりは抜けていない。

明治維新以降とは違い、日本は周辺国への出兵ができる政治状況にはなく日本には防衛能力があればいいという見解である。

対中、対韓、対露からの諸島防衛計画で防衛省は空母の投射能力に期待を寄せていることは明白である。

政治状況が許せば攻撃型原子力潜水艦等ほしいいものはいくつもあるだろう。

しかし空母の軍事ぷれぜんすは近年低下しているという話もある。

よく見ているアメリカ通信でも言及されていたが、どんな先端兵器を保有していたとしても結果的に戦場ではアサルトライフルを使った打ち合いに終止している。

フォークランド紛争や中東でのいくつもの軍事作戦では海上からの戦力投射の一つとして空母がでてきている。

しかし日本の諸島防衛ではいくつもの島が存在しており、また民間飛行場を含めればその数は十分にある。

それらから戦闘機やヘリを戦闘空域に投射させることはできる。

空母とは違い飛行場は敵の攻撃に弱いと思われるところはある。

なぜなら動くことができず、敵から空襲やミサイル攻撃を受けやすいという弱点があるからだ。

しかし大抵の軍事飛行場では攻撃を想定し素早く復旧させることができる体制を構築している。

攻撃の度合いにもよるが早ければ数時間で復旧可能だ。

また航空機は堅牢なバンカー等に収納することだってできる。

空母の強みは自在に動くことができそこから戦闘空域に到達かのうであることだ。

しかし空母を展開するには他の護衛艦が必要となり、また貴重な空母を敵艦隊との撃ち合いや潜水艦の跋扈する海域への侵入をさせることがしにくい。

そのため艦載機は働くが、その他の艦艇は遊兵化してしまう。

日本と各国の戦力差は決して日本にとって優位ではない。

貴重な戦力が遊兵化することはさけるならば空母を前線投入する必要がある。

しかし戦前海軍が展開して戦力はどれも艦隊を温存させている。

その結果補給不足から戦力投射できなくなり、航空機の標的艦とかした。

今の自衛隊に虎の子の戦力を前線に出せるとは思えない。

自分が空母を反対する理由は戦力の遊兵化を危惧することと、民間飛行場等の活用や通常戦力強化、補給体制の充実やサイバー対策等他になすべきことがいくつもあるからだ。

戦時中日本軍は情報を軽視していたことは有名である。

海軍の暗号は米軍に破られているし、レーダー等の技術では隔絶していた。

イージス艦等現代兵器は多くの情報によって機能している。

中国やロシアは通常兵器での劣勢を補うためにサイバー戦を充実させている。

自衛隊だけではなく日本全体のサイバー対策を充実させなければならない。

そうしなければ開戦と同時にサーバーダウンやインフラの混乱により戦力を移動させることすらおぼつかなくなる。

戦わずして自衛隊が動けなくなる。

戦争は基本的に今ある戦力で戦わなければならない。

戦争になったからと言って量産しても戦争中に間に合わないことが結構ある。

まして今の兵器は生産するのに時間が掛かるし、生産しても慣熟時間がかかる。

次の戦争は勝たなくてはならない。

でなければ第二次大戦の敗北を覆すことができないからだ。

汚名をはらすらめには血を流して勝利を得る必要がある。

 

哲学者というどうしようもない連中

よく哲学系の本を読む。

自分の興味が政治哲学や戦争哲学といったものに波及するためだ。

しかし哲学者という連中が好きになれない。

以前読んだ本「ヨーロッパ思想を読み解く: 何が近代科学を生んだか (ちくま新書)」ではイギリス哲学が好きなったが、ドイツ哲学というのもは大嫌いである。

それは哲学者が本を書くときに行間に自分の知性をひけらかすところにある。

自分はこんなにものを考えられている。

自分はリヒテンシュタインを理解できている。

こんな難しいことを自分は解説できている。

こういったことが行間を埋めている。

読みにくい挙句に不快すら覚える。

基本的に上から目線である。

また一つのテーマを語るときにいろんなところに話を広げまとめない。

そして最終的には哲学は結論を出すことではなくその思考が大切とのたまう。

ゴミの量産をかくも正当化できることに驚愕する。

もちろん結論を出すことだけが知識でないことは理解している。

そもそも世の中の多くの問題には明確な回答はないし、複数の回答があるのが常だ。

しかし哲学者という連中はマスコミと同じ匂いを感じる。

それは自分が中立公平であるという自意識過剰だ。

哲学者自身は中立公平を否定するのでマスコミより程度はマシだ。

しかしマシなだけであり不快であることに変わりはない。

とくにドイツ哲学やフランス哲学というのはゴミを撒き散らし愉悦に浸っている連中なのだ。

本質からはずれた議論をひたすら行い、かくも哲学が崇高であるように擬態する態度は学者という立場から見ても不適格だ。

哲学はほとんどイギリスによって確立できている。

ある程度解決したことを重箱の隅をつついて遊んでいる連中とその取り巻きどもが不快である。

言葉を重ねることは誰にでもできる。

そして本当に至高な表現は常に簡潔である。

スマートさこそ哲学を輝かせると思う。

成婚率の低さで何が問題なのか

成婚率が低いということがネットを調べればわかる。

成婚率の測定自体業界にて統一した指標がないため各社がそれぞれの算出方法にて発表している。

ネットをみていると成婚率が低いかもしれないが、本人の努力や出会いを積極的にものにすることで乗り越えられるという意見もある。

よく日本人は努力が好きな民族である。

結果より過程を大事にし、逆境に挫けず困難を乗り越えた人を褒め称える。

しかし世の中の常として美談として挙げられる人の背景には多くの失敗した人間がいる。

だからこそ褒め称えられるのだ。

成功率に拘る理由として低いことは当然そのサービスの提供法に問題があると通常は考えられる。

しかしこの業界は本人にとっての素敵な出会いとか素敵な相手がみつかるというようなスピリチュアルなことを述べる。

当然人間同士なので完璧であるはずはなく欠点や不満に思うことはいくらでもある。

業界として当人同士に任せることが常態化している。

最終的に決めるのは本人同士なのだから本人同士が会えば効率いいと思う。

だが婚活市場にいる連中が誰しもコミュニケーション能力があるわけでもなくその年齢まで売れ残っている以上問題がある。

問題のある者同士が会ったとしても成婚するまで難しいのは当然だと思う。

大人なのだから自分で解決するのが本来ではある。

だがスキル不足以前に対人関係に問題のある人々にフォローが必要である。

方法論を教えずに戦場に送り出すのはいくらなんでもあんまりだと思う。

なにより思うのは婚活市場の平均出資額の高さにある。

儲けることしか考えていない業界でスケールメリットを享受しやすい業界でもある。

そこにあぐらをかいているように思う。

2年ほど出費をすれば社用車程度簡単に買えてしまうほどの金額を投資しても得れるかもわからないギャンブルに身を投じざるおえない人々は哀れでもある。

またコンサルトの人間がこういった業界に身を投じるのは自分自身が恋愛にて強者であったためでもあると推察される。

教師になりたいと奇特な考えを持つ人が学校で虐めにあっていた人がほとんどいない。

それと同じで恋愛で不幸続きな人が婚活市場で働こうとは思わない。

サービスの提供者と受領者のスキルや前提としての知識に差がありすぎるために適切なサービスを提供できていない。

やっていて思うことは恋愛結婚した人にサービスを利用してもらったら何人結婚できるかと考える。

多くの人は書類選考で互いを排除するだろう。

これではサービスとして不適切であると思う。

未熟なサービスで大金と多くの時間を費やし成功率が低いことを棚上げにすること自体不誠実である以前にこの事自体が問題となる。

新規産業で新しいスタイルを持った企業が参入すれば既存の業界はすぐに潰れるだろう。

誰しもが疑問に思いながらも大金をはたいている。

しかし婚活市場が活性化していて収益が増大している今、改革までいかないだろう。

童貞について

 

なぜ「童貞」を笑いのネタにしてはいけないのか?|アメリカはいつも夢見ている|渡辺由佳里|cakes(ケイクス)

 

童貞の無価値観は男女問わず世の中にあふれている。

それが不細工で金もなく30過ぎると悲惨である。

40超えるときっと「なんで生きているの」と言われるだろう。

ようは女性との楽しい時間を過ごすことができない人は種としての存在意義がないと思われる。

他の人は知らないが別に好きでなったわけでもない。

接する機会もなく、あっても嫌な思いしかしなかったらそうなっただけだ。

だがそんなことは人種には関係ない。

身から出るモテないオーラは覆したがい。

一度誰かに受け入れられば解決するのだろうが、経験がないため誰もが近寄ってこない。

男ならば女の一人くらい捕まえるのが当然という価値観が蔓延している。

男女問わずそういう考えなのだからセクハラやレイプが減らないのは当然だと思う。

人種ではない「根性が腐ったなにか」にしてみれば同情もできない。

そういう男を見抜けなかった人種がドツボにハマっただけとしか思えない。

そう言ったところでそれ以外である自分が救われるわけでもないけど。

会社をやめて起こった身体の変化

有給をとってから3週間位となった。

最初は有給であるにも関わらず仕事をしたり、引っ越しの片付けを行っていた。

やっと3週目になってゆっくりできるようになった。

そうしたら急に脳みそが動き始めた。

今まで硬直していたものが少しずつ柔らかくなった。

ストレス等による身体の防御反応が解除されつつあるのを感じる。

そうしたらいろんなことが頭から湧いてくるようになる。

そして最大の改善は他者の気持ちを汲み取ることが以前よりできている。

 人との関わりは仕事のときはストレスでしかなかった。

人と関わると問題ばかりが起きるように感じたためだ。

トラブルは人が運んでくるという表現が当てはまる。

店員に冷たくすることも少なくなり、時には配慮するようになった。

人間らしさが戻ってきたとひしひしと感じる。

不思議なものでこういった心理状態になったため女性との縁もいくつかあった。

また視界が広くなった。

以前は正面しか見ていなかったものが今は横や上下を見れるように感じる。

暗闇から明るいところへ出たような感覚だ。

以前あった自律神経の異常による胸部の痛みがほとんど消えた。

一時期一日5回位飲んでいた求心は数日に一回程度になっている。

あいもかわらず女性とあったりするような心理的負荷がかかると求心は欲しくなる。

とはいえこれは後遺症のようなもので時期にもう少し改善すると思う。

心理的なゆとりができたおかげで人間らしさを取り戻しつつある。

次の会社ではこういったことが起きないように自分をいたわることを痛感する。

ニコニコ動画の失敗と改善

ニコニコ動画(く)の批判が多くの人によってなされた。

お通夜のような発表会、見ていた古参ニコ厨による嘆きと諦め、過去の良き思い出が崩れていく感覚、怨嗟が渦巻いていた。

その後ツイッターによる経営陣のフォローが始まり、ついに川上会長が新規事業にのみ専念するという話になり、緊急で交流会が設けられた。

一連の流れをみていてもはや経営という体をなしていないお粗末極まる対応であった。

すべてが場当たりであり、大幅遅延させたにもかかわらず大々的に小細工を発表するという無能ぶりをさらけ出した。

あの程度で本当にユーザーの賞賛を得れると思っているのならば、脳は花畑となっている。

本来ならば経営陣は今までの失敗の責任を取り、退陣するのが道理である。

親会社は角川であるためどう考えているかは不明である。

しかし自分が角川の人間であれば自社のイメージを失墜させ、優良コンテンツをゴミに変えた経営陣の責任を追求する。

 

批判をしていても仕方がないので別の視点から話をすすめる。

今回の根本原因はドワンゴという会社が自社のイメージを掴みきれていないことに起因している。

もともと動画にコメントをつけることでユーザー同士のつながりから始まった。

会社はそのプラットホームを提供していたに過ぎない。

根本においてユーザーはこの理念に共感したから有料会員にもなり、ニコニコを使ってきた。

しかしドワンゴはそれだけでは経営の行き詰まりを懸念した。

もともとオタクのような連中が集まってできたものであるため市場の狭さがネックとなる。

特に月額会員制のため集客を増やさない限り成長が望めない。

好意的に考えるならば超会議といったものや一連のドワンゴの活動は新しいブランドを立ち上げることにほかならない。

ドワンゴGoogleのようにすべてをインターネット上で検索できるようにするという明確なビジョンを立ち上げることを放棄したのだ。

無能な経営によくあるのは部下が作ったグラフや会員数をひたすら積み上げることに終止することだ。

これは数字という戦略レベルでは最下層のものである。

数字を追い求めるために新規事業や試みを行うことは経営をしているという錯覚を与える。

努力していることに愉悦を覚えるためだ。

だが悲しいかな世の中は努力を評価してくれないのだ。

ブランド構築には長い年月と不断の努力を強いられる。

明確な数値があるわけでもなく、ときとして身銭を切ることが必要となる。

ブランドというものは信頼を得る行為と重なる部分が多い。

問われるのは器量なのだ。

しかしドワンゴはこれを拒否した。

ひたすら新しいことだけを追い求め直近の数字を積み上げることに終止した。

その結果が中年三人が公衆の面前で自らの醜態をさらけ出す結果となった。

一度墜落したイメージを挽回するにはブランド構築よりも前途多難である。

ユーザーは泥舟から逃げ出し他のサイトの利点をみいだす。

一度愛着がわけばそこにいつくようになる。

どんなにドワンゴのいい情報が入ってきても過去の醜態が脳裏を横切りその情報を無視しようとする。

動画の画質やサーバーが急に良くなったとしてもユーザーは評価しない。

なぜならドワンゴという会社が自社ブランドを毀損させたためユーザーは信頼しない。

それに他サイト並になったとしてそれはスタートラインに立ったというだけなのだ。

私が提言できることは唯一経営陣の総入れ替えとブランドの確立を図ることだ。

これをなさない限りユーザーは減少するだけで過去の栄光だけが残る。

黎明期にニコニコ動画がありましたという名誉だけが残る。

角川含めてどう考えているかは不明だが早急に執り行う必要がある。

#metooに関する不謹慎な考え

 

www.buzzfeed.com

 #metooという話が日本でも広まっておりこの事自体はいいことだと思う。

権力を使った暴力はどうであれ醜く抵抗が難しい類のものだ。

このことによって健全な社会が構築されれば幸いである。

 

しかしものすごく不謹慎なことを思った。

それはこういった男女のいざこざは最高のゴシップ記事のような効力を発揮するということだ。

週刊誌やテレビは不倫法道等男女の話題をあげると視聴率があがることがわかっている。

今回のことは正義感をくすぐられ、権力に対する抵抗、権利の獲得、性に関するセンシティブな内容と話題に事欠かない。

皮肉なことにこういった普段は抑えられている内容がこういった場では効果を発揮する。

このことはいかに現代社会が潔癖であるかということの現れでもある。

またその潔癖さ故に多くの人がなきをみているかということの現れでもある。