結婚相談所で相手を探す難しさ
できない理由はいくつもある。
結婚相談所という制度もその一つだと思う。
年齢、収入、容姿と検索できることによって選択肢が狭まる。
そこから自分と合う合わないといったフィーリングと試験をいくつも経る必要がある。
いくつも試験を受け初めて成し遂げられる。だが普通にであって結婚した同士が結婚相談所で結婚できると思えない。
友人からの紹介、趣味で出会って仲良くなったとか相手と結びつける共通項目があったから可能だったのだ。
結婚相談所ではそういうことが排除され、本人のスペックで決まる。
男なら収入、女なら容姿となる。
しかし結婚し、何十年と連れ添う相手を収入と容姿で決めるのは無理がある。
収入はその会社が潰れたり体を壊さない前提となる。
容姿も今の状況でそうであるに過ぎない。
残酷かな年齢を重ねるとよほど努力しないと劣化する。
年齢や容姿といった要因で結婚した場合、もしその前提が崩れた時に離婚するという恐怖もある。
大概の人にとって自分のスペックに自信はない。
結婚相談所で相手を探すのは自らの市場価値と価値を失っても相手が自分と寄り添う覚悟があるかという不確実性という両面から追い詰められる。
一人で生きていくのには限界
一人で生きていくのに限界が来ている。
転職するにも別の世界にふれておく必要があるが、友人でもいないと機会がない。
社交的な人間ではないので自然うちにこもってしまう。
友人を作ることも難しい。
話はするが友人とまではいかない。
世界は広いのだから多くの人と触れ合う機会を設ける必要はあるが難しい。
包装についてアマゾンと日本企業の考え方の違い
よくアマゾンで買い物をしていると小さいものに大きなダンボールで包装してくる。
面積の半分以上が空のときもある。
これはアマゾンがダンボールを6個程度揃えてやりくりしていることから発生している。
一般的な日本企業であれば無駄をなくすということでさらに多くの種類のダンボールを用意し無駄削減運動をするだろう。
確かにそれによって紙の節約、運送費の削減ができるだろう。
だが一方で手間をかけたことにより人件費や工程が増える。
もう一方でコピー用紙の再生紙利用がある。
片面印刷の用紙の裏面をコピー機に入れて使うというものだ。
コピー用紙の節約をするために行われているが、一方で紙詰まり、故障の原因ともなる。
ひどい会社になるとコピー機が一台しかないためいちいち紙の入れ替えをしている企業もある。
紙の削減のために多くの人件費を費やしているのだ。
多くの日本企業ではトータルコストの概念が希薄だ。
従業員の労力はタダという概念があるためだ。
給料を払っている固定費だからこき使うという考え方だ。
しかし結果としてコストは上昇している。
紙の削減に代表されるように数値化できるコストは意識される。
だが本当に改善しなけれならないのは固定費であり、数値化できない部分なのだ。
これは人事制度にも問題がある。
社員を評価する際の指標として数値化した削減や目標を基準にした評価制度では数値化できない部分は放置される。
さらに問題なのはそういった無駄が積み重なるとそれが企業文化として定着する。
現場ではトータルコストとしてマイナスであるにも関わらずしなければならない作業がある。
先程述べたコピー用紙の入れ替えを怠ったとした場合注意を受ける。
それでも改善しなければアイツはコピー用紙の無駄遣いをしていると評価される。
仮に指摘したとして皆やっていることとかコピー用紙のコストの説明をされる。
備品のコスト上昇に対して人事部から指摘を受けたとき、説明しても社長が許さないとか言い訳されるのだ。
マネジメントやコスト意識のベクトルがズレていることから発生する問題。
結局一番金がかかるのは人手なのだ。
後悔
昨日帰省のため相鉄線に乗っていた。
快速急行にのったのだが行き先を見ずに乗ったため、終点の湘南台へ行ってしまった。
ドア横に陣取り本を読んでいると対面に綺麗な女性が外を見ているのに気がついた。
初めは綺麗だな位だったのだが、よく見ると好みのタイプだったのだ!
一見そっけない感じだが、優しい感じの人。
意識し始めるととまらない。
チラチラ見ていると、相手も気付いようで声をかけてくれオーラが出ているように感じた。
なんかストーカー気質があるような書き方だが、相手に事がわからない以上主観で感じたことを書くしかない。
乗り換えのため相模大野で降りようとするとその女性も一緒に降りる。
降りる直前女性がこちらをチラッと見た気がした。
声かけろってこと!?
動揺しているとホームに電車が滑り込み扉が開く。
階段を上がる前女性が前に出てくる。
上がったら声かけようと思ったら、バックメチャ重い!
キャリーバックに入っているPS4とパソコン類が邪魔をする。
女性のことしか意識がなかったためヒイヒイ思いながらモタモタ階段を上がる。
しかも急なことでここ数ヶ月の疲れが一気に押し寄せる。
階段を上がると女性がゆっくり歩いている。
だが階段を上がる行為で参ってしまう。
結局見送ることしかできなかった。
乗り換え車内で後悔に打ちひしがれる。
声かけたからうまく行くわけないのだが、問題なのはチャンスと思ったときに足かせのために行動できなかったことだ。
キャリーバックなんか捨てればよかったのだ!
貴重品ではあるが一瞬のチャンスに比べれば高価なものではない。
それにおいて走れば追いつけるし、そんな大きいものを盗む人もいない。
なにより声掛けは一瞬で決着がつくのだから問題ないのだ。
チャンスを得るため捨てる必要があれば捨てる覚悟が必要だったのだ。
躊躇したためチャンスを逃した。
思えばいつもそうな気がする。
躊躇してチャンスを逃すことが多い。
仕事の疲れもあった。
思えば仕事と家の往復で彼女作る余裕すらない。
もうこの仕事は辞め時かもしれない。
会えないことがわかっているが、相模大野で同じ時間に合わせ待ってみる。
覆水盆に返らずとはよく言ったものだ。
朝鮮半島での戦争で日本のことを思う
つらつらと思うみるに今日本を巻き込んだ戦争について一番ダメージが少ないのは対北との戦争のような気がする。
戦後70年の日本の平和に対する無策と狂信的な平和主義が破綻する決定的な一打となりうる。
打ち込まれる弾道ミサイル、工作員による後方撹乱、破壊工作等により多くの人が亡くなる。
だがそれは国体を揺るがすほどの犠牲ではない。
政府の対外制作の杜撰さが明らかになれば憲法改正を含んだ包括的な政治改革が断行されると考える。
人命が地球より重いという過度な保護政策は緩和され、財源が成長と防衛のために投入されれば日本の発展が促進される。
勿論大量の難民が流入することにより社会不安や治安維持が脅かされる。
だが身近に脅威を感じることで政治に対する民草の声が大きくなる。
今の閉塞感は犠牲を伴わない方法を模索することにある気がする。
何かを変えることは必然的に犠牲を伴うのだ。
犠牲を伴わない方法が一番いいのだろう。
だが同じ結果でも犠牲を伴うほうが価値があると人は考えてしまう。
何かの犠牲の上に新しいものを築くというのは強烈な成功体験となる。
日本に必要なのは価値観の転換を伴う強烈な成功体験
冬季うつについて
毎年10月28日から11月3日にかかる冬季うつ。
3月中旬位まで続く症状は体の倦怠感や思考の低下などの諸症状が上下する。
毎年誤魔化しながらも乗り切ってきたのだが、今年は強烈な倦怠感に襲われた。
仕事において新しいことやスピードをひたすら求める仕事を続けていた。
11月の下旬から症状が悪化し、日中に強烈な睡魔が襲い事務所にいれなくなり、トイレに行くこともしばしばある。また倦怠感が悪化し、腰がぬける前のような感覚に襲われたりと仕事にも支障をきたすようになった。
支店長からは怠けているように見えるため、注意を受けるようになった。
どうにもならなくなったため上司に相談をした。
相談する相手はあくまでもこういったことに理解をしてくれる人を選んだ。
理解のない人に相談する場合、ただのいいわけになりそうだったからだ。
相談した結果、根回しをしてくれること、心療内科に行くことを勧めてくれた。
今まで心療内科に行ったことがなく、相談するときもそこがつかれることはわかっていた。
毎年12月初旬のあたりに電話をするが、予約でいっぱいであり、仕事があるためほっぽいていた。
そのつけがまわってきたといえばそれまでなのだろうが、そもそも心療内科に行ったとしても解決しないことが印象としてある。
診断書になんとかかれるかは不明であるが、病人扱いとなれば上司は少しは配慮することにはなる。
病人扱いでないとしても倦怠感等の諸症状が酷くなれば倒れるだけだ。
初診は来年になる。
だが薬を貰っても依存症になる可能性があるし、解決にはならない。
性質の問題であり、一生付き合っていくものだと思う。
妹もうつ病の傾向があり、子供2人して不出来なものができたものだ。
育て方とか考え方とか色々原因があるのだろうが覆水盆に返らずということだ。