大東亜戦争原因の思いつき
日本が戦争に追い込まれる状況を作ったことが問題であり、原因は軍部の暴走を抑制する手段の欠如と暴走する国民とマスメディアの良識の欠如である。
前提として勝てない戦争に仕掛けられたにせよ、仕掛けざる負えなかったとしても戦争をすること自体誤り出会ったのだから防ぐ努力が必要である。
1940年3月からの交渉の話ではなく、海軍が米国との戦争で勝利できないにもかかわらず、予算を要求し続けたことと、戦争回避のための関係構築が外務省に不足していた。
WW1までは協調していたこともあったのだから関係がこじれたとこには何かしらの原因がある。
日英同盟解消から国家としてのコントロールが機能しなくなった。
元老が存在して成立していた国家機能が形式を重視することで機能不全に陥った。
そのため天皇の君臨すれども統治せずという方針も意味ないものへとなった。
内向性と仕事について
人と会うと嫌になってくるというのが昔からあった。
学生の頃は内向性というものが分からず、悩んだ時期もあった。
内向性であることは他者にはなかなか理解できない。
後輩や直属の上司は理解してくれるが、客先や外向性の相手やそういうふりをしている相手に対してはどうにもならない。
相手は対話によって理解を深めようとする。
その場合仕事後の飲み会や報連相を求めてくる。
仕事に対してある程度の自由さがほしい人間にとってはつらいものだ。
また飲み会はたまになら参加してもいいと思えるが月に2、3回と増えていくともうたまらない。
仕事中は人と接し続けていることで疲労しているのにさらに疲労することとなる。
仕事以外で付き合いを減らす方法と理解をある程度相手にも求めるスタンスは必要なのだろう。
戦争と女性の社会進出
死刑廃止について
瀬戸内寂聴という人間は典型的な綺麗ごとで世界が救えると思っている楽天家である。
世の中には道徳的に正しくとも、公正を欠くことはいくらでもある。
死刑廃止もその一つだ。
そもそも犯罪を犯す人はごく一部を除いて利己心に固まった人間が犯すものである。
刑罰は更生を企図して行われるが、更生不能な人間がいるのは当然である。
更生できる人間は刑期の中で、利己心さを悔やみ被害者に対する贖罪を行う。
しかし自らが犯した法に対して、法の方が間違っていると考える人もいる。
更生の意思もなく、計画的に多数の人生を破壊するような人間を生かしておく理由がない。
社会にとって害をなす人間を捕まえるのが警察の役割であるならば、司法は社会にとって今後さらなる害をなす人間を裁く場である。
司法の最強の武器は死刑であり、犯罪を犯す人間にとって最大のリスクは自らが殺されることである。
その可能性を「人を殺してはいけない」という道徳心で排除するのはばかげている。
法を犯した時点でもはや異常な状態であるのに、正常時の判断を適用しようとする矛盾に気づかない。
異常な状態には異常な状態でしか通用しない刑罰がある。
彼女らのような人種には真に人の温かみや慈しみといった感情が乏しいと思う。
なぜなら自らが被害者の親族となったとき、加害者に死刑を望むのは当然であり、社会的制裁を軽減するような行動をとるべきではない。
誰しも聖者になれるわけではないのだから聖者に合わせた法律を制定しても効果はないだろう。
人にお金を貸すということ
社会人になっても同僚等からお金を借りようとする話があった。
人にお金を貸すということは その人に対して いくらお金をあげられるかということだ 。
人にお金を貸す場合、返してもらうことを考えるのではなく、いくらならあげられるかという相手に対する信頼性の問題となる。
その人の人格や素行に対する評価としていくら貸すかという問題でもある。
だから通常お金の貸し借りというのはおおっぴらかに行われないのは、互いにとって信頼性を金銭に変更しようとする行為にもなるからでもある。
だが、時としてやむ負えない理由から貸さざる負えないことがあったとしても上記の点に気を付ければ損失はそこまで多くはない。
借りる側の人間の性質について共通項がある。
そもそも自分の分を超えたお金を使っているのにも関わらず、さらに他者からも借りるという行為自体が身の程を知らないという言葉があう。
自制心が欠如したことから金銭トラブルが起こるのだ。
そういった人間を見極めるには、日頃からの行いを観察し、情ではなく行いの評価とする。
そのことは自分を守ることにもつながる。
自分を守ることは大切であることを対人関係では欠落する時がある。
学校教育では、調和と他者が困っているときは助ける心を尊ぶ。
しかし世の中ではパラドックスが通常といってもいい。
世間の正義が必ずしも自分にとって良い結果をもたらすとは限らない。
そしてこの場合、互いにとってひどい結果となることは必然である。
金の貸し借りはしないのは先人の知恵でもあるのだ。
歯の食いしばりについて
いつからかわからないがいつのまにか歯の食いしばりが常態化している。
認識したときは大学生だった。
だんだんひどくなったため社会人になったときにマウスピースを使い始めた。
睡眠時の食いしばりは軽減されたが改善には至らなかった。
最近肩こりと首のこりがひどくなったため記事をさがした。
日中については意識すればどうにかなるだろうが睡眠時にはどうにもならない。
ほかの記事ではストレスを軽減することやリラックスのやり方など書いていたが改善するとは思えない。
どうにかならいものかなぁ~
PS
3日目くらいだが効果がでそうなことがみつかったので展開。
首のこりが少しとれたような気がする。
だが睡眠中の食いしばりは依然として治らない。
学校での教育と生徒のことについて
上記記事では教師が素行の悪い生徒の面倒をみることができないという嘆きだった。
返答については正鵠を射ているのでここでは述べない。
ただ近年教師の過重労働が取り沙汰される状況でもあり、保護者からのクレーム対応等精神的に辛い状況が存在する。
かつて教育とは勉学のないものに知識を与えるという目的から出発している。
現在の教室の形態は産業革命時のイギリスでも見られたものだ。
そのときは労働者に必要な知識を与える場となっていた。
それから近年になるまで変わってはいない。
学校から教養やしつけ、思春期における精神の鍛錬等さまざまな役割を担うこととなった。
この原因は教育が万人が受けれるものに史上初めてなったことと、学校が選ばれる時代へとなったことによるものだ。
教育は受けさしてもらうものから受けるものへとの変化は学校と生徒と保護者との関係に変化を生じさせた。
思春期の精神向上等の新たに追加された項目は、かつて結社や師の元に集った勉強会等の役割であった。
ここでは勉強や熟練度をテストで図るのではなく時間をかけて人間成長をしていくやり方であった。
元来教育には手間と時間がかかるものなのだ。
しかも期待通りのものが仕上がるかは賭けの要素が大きい代物で明快な答えなど存在しない。
全てが数値化され、効率化を進められる中で今最もできない部分が教育なのだ。
人間が存在することで機械の生産性に悪影響を及ぼすようになり、人間が機械に使われているような状況だから教育というお金と時間をかけてゆっくりやるやり方は好ましくないのだろう。
今必要なことは将来の発展を担う人材を育成することであり、既存の教育システムを大幅に改良することだ。
少なくとも黒板に向かって勉強するやり方以外にも様々なやり方を並行導入する必要がある。
テストというものは必要なのだろうがテストだけで成績をつける体制も変化するだろう。
知識を叩き込むだけが教育なら塾に通ったほうが効率がいいことは間違いない。
生徒それぞれに出来不出来がありニーズに即応するのは塾の見せ場なのだから。
人間の形成において教育の果たす場所は学校の外にもあった。
地域の交流が減っていく中で生徒は学校と特定の場所を行き来するだけになった。
勿論安全と効率性をみればいいのだろうが、幼少期から世界が広いことを見せる必要がある。
それは海外に行くとかそういうことではなく、子供が自分だけで冒険に出ることだ。
幼少期において裏山など近場だが普段行かない場所は興味がつきないものだ。
新しい場所に行くと人は眼を開き、周囲の細かいことまで観察しようとする。
神経は研ぎ澄まされ精神の高揚を感じるだろう。
そのことこそが成長の証であり、子供が個性を獲得する瞬間でもある。
個性とは何人にも知られない自分だけの領域である。
そのことはプライバシー権として民主主義の根幹を形成する一つとなっているのだ。
習い事というのも、上達した結果何かが出来たということだけではなく、自分が両親から離れ削除一つ事に没頭することで自我の形成をしようとする精神志向の結果として個性が生まれたのだ。
個性を生み出すには自身の内部で卵を温めるように大事に隠しておくものだ。
他者からの介入で代わりに温めても孵化することはないだろう。
今の生徒の置かれている立場は凄惨なものだ。
かつてミシェル・フーコーが社会は監獄であり、国家や世間は監視塔のようなことを書いた。
学校と特定の場所を行き来するだけであるため、その生徒は監獄に閉じ込められたようなものだ。
学校というものほど人を効率的に収容し、規律を叩き込む場はない。
そこでは教師という看守に番号を与えられ画一的に整列させられている。
また生徒間でも教師に告げ口をしようとする密告者やチームを形成しシノギをけずっている。
そこではイレギュラーをおいておくスペースはないのだ。
誰かをスケープゴートにするこで監獄の秩序を維持しようとするのは効率的であり、また生徒にとっていい子でなければスケープゴートにされるという恐怖心を植えることもできる。
生徒それぞれに学校以外の場所を作らせることはいつでも逃げれる場を作ることでもある。
人生では起こってほしくはないが、撤退を迫られる場がある。
それはいつ誰に起こるかわからないが幼少期に学校で起こらないという可能性はないのだ。
社会人ですら退職して次に行こうという考えを持てずに自殺してしまう人がいるのだ。
なぜ子供には逃げる場を与えないのか。
子供は強者の理不尽さに常に耐えている。
子供が自殺するという選択をしてしまうのは致し方のないことだ。
正しいことが子供のためになるわけでもない。
道徳的に子供のほうが敏感であるものだ。
なぜなら大人は逃げ道や建前と本音を使い分けることで正しいことを躱す術を知っているからだ。
正論だけで世の中が成り立っているわけではない。
当然子供にも当てはまるのだ。
子供も立派な社会の構成成員であるのだから互いに尊重するのは当然なのだ。