私は誰かの知識によってできている

自分の知識は誰かの知識や情報の集積体に過ぎず、そこに個はあるのだろうか?っという体でダラダラ書く

香港デモとリベラルについて思うこと

香港デモが第二の天安門事件として報道されるようになった。

国慶節の前に軍を投入して早急な鎮圧を図る予測だった。

しかし現在まで軍を投入せずに武装警察との衝突を繰り返している。

鎮圧するには実弾を用いて多大な犠牲を出すしか双方にとって妥協点がない状況になりつつある。

デモ隊は統一した組織の見解を出せずにおり、権力側に対するツテもないことから要求を通すことは無理に近い。

習近平側が妥協したとしてもデモが解散したあとにひっくり返すことができる。

 

こうした切迫した状況で民主主義の火が消されるか瀬戸際であるにもかかわらず、日本のリベラルは声をあげていない。

本来であれば国会で弾劾決議案を可決させたり、香港デモ隊に何らかの支援をするべきだろう。

だが今注目されているのは桜を見る会ともみ消しのために沢尻エリカを逮捕したという与太話だ。

日本のリベラルが口先だけのクズ集団であることは今に始まったことではない。

だが自分たちが安倍政権を倒すために成したかったやり方が香港で起きている。

この状況に目を向けないことこそ口先だけである証左だ。

他者に汚い真似をさせて自らは何もせずに権力を簒奪しようと画策する姿に国民は理解を示すことはないだろう。

どんなに権力者に罵りの言葉を浴びせたとしても、自らがより醜悪な存在であれば聞く耳を持たない。

日本政治にとって最もガンとなっているのは対抗する野党の不在である。

彼らが対抗馬になり得ることはない。

一時的に政権をとれたのが幸運であって二度目はない。

一方で自民党も中国になびいて民主主義に唾をはくがごとき振る舞いをしている。

米中冷戦のときに習近平国賓待遇で来日を促すことはどうみても香港デモと民主主義に目を背ける行動である。

民主主義国家ならば中国と縁を切って米国つく明確な姿勢を示しても問題ない。

どう考えても米中どちらかを選択するならば日本には米国しか選びようがない。

選択肢がないのだからコウモリ外交最終的に害悪としかなりえない。

民主主義の火がかき消されようとしているときに、お遊びをしている自称リベラル連中こそ民主主義を最も愚弄している存在だと思う。

美意識について思うこと

buzzmag.jp

以前有名になった1枚の写真がある。

テーブルと椅子と花だけなのに気品さと落ち着いた会談ができる場が構築されている。

この記事ではサウジでの会談写真も掲載されており、いかにも高そうなものがこれみよがしにおいてある。

思うに日本の美意識は引き算で考えられていることを表している。

 

戦艦大和を美しいと言う人が多い、城のようなどっしりさがある巨艦に魅せられる。

だが大和が搭載している砲に対してあの船体はとても「小さく」作られている。

実際であればもっとずんぐりむっくりな船体に仕上がっていた。

これを様々な技術を駆使してコンパクトにまとめたからこそ、技術の結晶が美としての色彩を放っている。

京都の代表格といえば金閣寺である。

人生で一度みたいと思うスポットの一つではあるが、同時に一度でいいと思わせる外観である。

実際にあそこで茶会を催したくはない。

金色の外観は人目を引くが美しいとは別のものだ。

誰かが言っていたが子供の時は金閣寺を見たがるが、大人になると銀閣寺の良さがわかる。

財政難から銀を貼ることがなかった銀閣寺の方が侘び寂びを感じる。

 

今の日本企業にも金閣寺やアラブの会談スペースと同じような発想でゴテゴテしている。

ポイントカードと割引用アプリを併用しているヨーカドーもその一つだ。

買い物で一々ヨーカドーアプリを起動させて割引商品を検索させるというコストを消費者にしいている。

買い物を楽しくさせるための発想で作られたと思われる。

だが発想からして終わっている。

買い物の時間を短時間かつスマートに済ませたいと考えている消費者に対して寄り添っていないくだらないアプリを提供するのがコスト増大を招くだけでしかない。

生協やコストコのように何人かでまとめ買いして安く商品を入手することでお得感を出させる方が楽しさを味わうことができる。

洋服の青山やAOKIといった紳士服業界もわかりにくい割引はがきを毎月のように送ってくるやり方も思考停止の産物である。

お得感を演出するつもりが自身の商品価値を極限まで下げることで定価の半額で商品を手にしても高い買い物をしたという感覚だけが消費者に残る。

洋服の青山は複雑な割引制度を廃止したと発表したが、センスのないはがきは相変わらず送付されるのと複雑な割引制度をやめた矢先に2900円以上の小物や19000円以上のスーツ等の商品10%オフセールを実施する。

今の消費者が安易な値下げに対して飛びつかなくなっている現状を理解できていないのだと思われる。

昔から安物買いの銭失いという格言がある。

例えばトップバリューウィスキーに対する評価が当てはまる。

トップバリュのウィスキーを専門誌が評価→あまりの辛辣さと表現力に笑いが止まらない「一編の詩にも見えてくる」 - Togetter

低価格な商品はいくらでもあり、イオン系やドンキホーテでも紳士服を買える時代となっている。

この中で葉書を送って値下げセールを連発しても勝ち目は薄い。

 

一方でgoogleのような海外勢力の方が引き算を心得ているように思う。

iPhonegoogleのトップページには無駄なものがない。

分かりやいかつ使いやすい設計となっている。

amazonのトップページも小売業界の独特なごちゃつき感が少なく見やすく感じる。

消費者に伝えたいことが明確かつ簡潔だからこそできることだと思う。

これから日本企業が生き残るためには美に対する引き算の意識がいるように思う。

核兵器について思うこと

核兵器の拡散にかかわらず日本では核に関する話題は出てこない。

出てきたとしても核武装によって中国に対抗するという論調である。

もちろん中には具体性かつ理論的な発言もある。

しかし多くは核兵器について使用すれば戦争が終わると思っている程度で話している場合が多い。

これでは核について絶対話してはいけないや広島、長崎の犠牲者を侮辱する行為と言って誹謗中傷する人間と大差はない。

核兵器はどちらかというと抑止のための兵器である。

抑止とは相手の攻撃を断念させることを目的としている。

よって相手国に対して攻撃を思いとどまらせることが大事となる。

仮に日本が核武装をし、中国を核攻撃したとする。

しかし中国共産党は国民がどれだけ傷ついたとしても戦争をやめようとは考えないだろう。

何故ならかつて中国共産党は国民党軍から逃れるためにひたすら後退した歴史を持っている。

また国民党軍も日本軍の攻撃に対してひたすら奥地に後退し続け、攻勢限界点を上回るように仕向けていた。

よって核攻撃して中国に対してダメージを与えたとしても勝利を得ることはできない。

また習近平の直上に落とせる核兵器があったとしても、相手が信じない限りにおいて抑止とはならない。

そして落としたとした場合、終戦のための交渉先を失うこととなる。

雑多な勢力がしのぎを削る三国志のような世界となり、日本は戦前と同じようにシナ大陸に飲み込まれることとなる。

なので核兵器を向ければ相手が言うことを聞くというものではない。

核は持つことに意味がある。

しかし使用するには余りにもリスクが高いし、放射能の問題によって使い勝手も悪い。

結局核も通常兵器も使い方次第なのである。

献血ポスターにアニメキャラを使うことに思うこと

献血ポスターで「宇崎ちゃん」の大きな胸強調しすぎ?「女性をもの扱い」「いや、関心高まる」 : J-CASTテレビウォッチ

胸を強調したアニメキャラが起用されたことで賛否両論荒れている。

公共性を持ち、医療というセンシティブな内容に関わっている献血だからこそ炎上した気がする。

本件について正直どうでもいいしか感想がない。

キャラのことは何にも知らない。

だが献血しようとしている人がポスターをみて献血するわけではない。

別の理由があってするためだ。

ポスターをみて献血しようとする人は今まで興味をもっていない人や初めてする人に興味を持ってもらうためが大きい。

このポスターをみて否定的な感情で献血しない人がいたとしてもツイッター等で拡散され多くの人に認知されたことで広告としては成立している。

キャラの胸が誇張して書かれているという批判についてもどのラインならいいかという基準も人それぞれにすぎない。

極端なことを言えば社会に浸透しているいらすとやの女性も扇情的と言えてしまう。

 

否定派の枝葉末節の論議にあわせているから雑多な論議になる。

今回のポスターにいえることはそもそもアニメキャラが広告として街中にあることに嫌悪する層が一定数いることを多くの人が認識できていない。

民主主義だの自由主義が侵害されているだの言う人がいるが飛躍しすぎである。

ただ個人が不快だからなくしてほしいと表明しているにすぎない。

今回の顛末で一番驚いたことはアニメキャラ広告これだけ多くの人が肯定していることだ。

 

20年位前、コミケに行く人やアニメ好きは犯罪者予備軍と呼称されていた。

宮崎勤という幼女連続殺人犯がアニメ好きという情報がメディアで拡散した結果である。

社会においてもアニメを見ている人は子供っぽいや危ない奴と見られていた。

2006年に涼宮ハルヒの憂鬱というアニメが放映された。

この作品が放映される前からアニメの放送が拡大し続けており、この作品でアニメブームが到来した。

テレビで放映するだけではなく様々なメディア展開を行うことで市場が拡大した。

アニメキャラのCDやライブを通じて広告宣伝も拡大した。

秋葉原ではアニメの広告がビル外壁全体に展開されており、全国へ波及した。

とはいえ2006年当時世間ではまだまだアニメに対する嫌悪感は広く共有されているように思われる。

秋葉原通り魔事件で加藤智大の見た目がオタクっぽいこともあり世間では偏見があった。

学校でも流行っていたが、格好からしてオタクとわかりそうな連中の間で共有されていたにすぎない。

 

明確な変化を感じたのは近年のいらすとやの人気がでた時だ。

アニメ柄に対する嫌悪感が世間で薄まったことで人気がでたと考えられる。

会社や役所といった資料にアニメ柄を使用すればクレーム必須であった。

だがアニメに対する偏見が薄まったことで簡潔にイメージを伝えるツールとして利用できるようになったと思われる。

ここまでになったのはテレビでの放送の他にガンダム世代以降の若年層が大人になって購買力が増大した結果、市場拡大ができたことにもある。

そして新たに若年層が参加することも大きい。

アニメの認知が広く共有されることでタイアップする企業や団体が増大した。

広告というのは買ったり、利用してもらうためにするものだ。

認知されなければ意味はない。

すでに認知されているものを通じて知ってもらうことは利用や購買する心理的抵抗を下げる効果もある。

要するに正のスパイラル作用で社会からアニメに対する嫌悪感が薄まった。

 

だがいつの世でも取り残されている人がいる。

今回声をあげている人達だ。

この人達の思考は20年前の犯罪者予備軍という認識から脱却していない。

こういった人達から見れば日本終了という世紀末の状態と錯覚するだろう。

テレビをつければアニメがいつもやっているし、ゴールデンタイムでは特集している。CMでもスマホゲームでアニメ柄のキャラが画面を走り回り、ネットで記事を読んでいてもバナーに表示される。

駅を歩いていても壁面広告がある。

街中歩いていても商店街のポスターの片隅にいたりする。

悪夢を見ているように思うだろう。

しかしもはやアニメ柄は人間の抽象化とアイコン化した存在となっている。

人間を起用すればスキャンダルや細かい部分での好き嫌い、発言によって広告主が不利益を被ることになる。

だがアニメ柄はコンテンツであるためその心配はなくなる。

化粧品など人間の肌に関わるものはアニメ柄は難しいがそれ以外の広告は増大するだろう。

現実とアニメの境界は曖昧になってくる。

とはいえ昔から宗教で仏像や絵画を書いていたのだからその延長線上にすぎない。

アニメがここまで社会に浸透した寛容さに驚いている。

座右の銘や愛読書の質問をする人に思うこと

座右の銘や自分の核となる本について質問する人がいる。

質問する人は相手の精神の核となる部分のついて知りたいと思われる。

とはいえこういった質問の回答はほとんど同じようなものとなる。

多くの成功者が提示した本や言葉を見たからといって成功するわけではない。

私はこういった質問はあまり意味がないと思っている。

お子様ランチのハンバーグの上に刺さっている旗だと思う。

興味や気を引くきっかけとはなるが食材の美味しさや香りを味わえるわけではない。

例えば自省録を提示した成功者がいたとして質問者が同じ本を読んでも理解や解釈は異なったものになる。

またいつから意識するようになったのかでも異なる。

成功した後に振り返った結果なのか、成功する前に読んだものなのか、思春期に読んだのかでも解釈や理解は異なる。

読んだ回数や自分なりに纏めたノートを作成しているかでも異なる。

また育ちや経験によっても解釈が変わってくる。

要するに質問者の質問の設定が悪いに尽きる。

知りたいことは考え方や危機に陥るときの回避の仕方など質問者が根本で気になっている事柄が追求できていないがためにされる質問に聞こえてしまう。

結局その人のことを知る前に質問者が自分自身を知っていないと思う。

神戸の教員いじめについて思うこと

www.kobe-np.co.jp

この事件が表面化してからメディア含めて多くの批判が加害者にと教育委員会に寄せられている。

一般社会なら集団暴行事件としてメディアに取り上げあれ、企業イメージは失墜し、加害者は実名報道されるだろう。

しかし学校という閉鎖された空間で同じことをしても、いじめとして片付けられる。

人権がいかに学校という特殊空間ではないがしろにされているかがよくわかる事件であった。

 

今回批判されているが同様の事件は次々とでてくるだろう。

教師という存在自体がスクールカーストで上位にいる人が成り上がる職業である。

学校生活で学校に肯定的なイメージを持ち、教師になりたいと思う人は恵まれた存在である。

学校を卒業し学校で労働しているため、学校という閉鎖された環境がすべてだと思っている。

職員室という閉鎖された空間が社会のすべてだと若い教員は特に思うだろう。

教師という職業についた以上、どこの都道府県にいっても同様の待遇だと思うだろう。

また第2新卒として就活することも長時間労働から難しい。

なにより自ら教師になりたくて業界に入った以上、心理的に抜け出すことは難しいだろう。

またベテラン教師にしても志が高い人はたくさんいるだろうが、クソなやつはどんな企業にでも一定数いる。

問題なのは自浄作用がないため行動が野放しになり制御できなくなる。

中小企業であれば問題が起これば社長や取締役に話が伝わる。

配置転換や部署のたらい回しをして被害を広範囲にばらまくが、一箇所に被害が集中するのを避けようとする。

これは正社員をやめさせにくいことにも原因はある。

また他の社員や上司が問題のある人間の行動を抑制したり、とりなしたりする。

取引先への影響も考慮し問題のある人物はある程度行動の制約をされる。

 

だが学校の人事は教育委員会にあり、校長が人事権をもっていない。

問題教師を市の教育委員会がクビ(懲戒免職)にできない理由 – アゴラ

役職としての上下関係はあるが、基本は同じ職場仲間という意識が先行している。

教育委員会に問題のある教師をわざわざ言うインセンティヴを校長が持ちにくい構造である。

教育委員会に校長が任命されている以上、自分が校長をしているときに問題が発生したら評価に関わってくるからだ。

また学校はセキュリティ強化の名目でより閉鎖的になっている。

地域住民との関わりも減り、共働きによって親の監視もゆるくなっている。

そのため外からいかに見られているかという意識を持ちづらくなっている。

 

以前から学校はパノプティコンと捉えている話をした。

異物がいないか教師が子供を監視し、牢獄に入れらた子供同士でも監視しあっている。

異物と判断されれば秩序維持のためにいじめと称して暴行や暴言を加えることで排除する。

いじめられた子供は学校と家の狭い空間に追い込まれ、圧死させられる。

個性を尊重すると言いながら画一的な教育を押し付け、教えたこと以外をさせないようにしている。

服装や髪の色、下着の色まで指定するという行為は子供を人ではなく愛玩動物として捉えている。

犬や猫にお気に入りの首輪や洋服を着せてよろこんでいるのとさして変わらない。

変わるとすれば教育指導と呼んでいるに過ぎない。

社会にでたらその子が困るから教えていると反論する人がいる。

だが困ることを経験から学ぶことも教育だと考える。

髪の色や服装にケチをつけ、本人が不利益を被ることで社会との折り合いをつける経験となる。

正解だけを教えても、なぜそれが正解なのかが不明では応用力が身につかない。

この話は学校だけではなく、閉鎖的な業界で働いている企業人にも言えることだ。

 

監視状態を脱却するためには外部から学校を監視する目が必要となる。

地域社会で高齢者などと接する機会をより多く設けたりする必要がある。

昨今の犯罪によって地域住民が児童を襲う事件も起きている。

しかし世の中の一定層いるものを排除することは不可能である。

子供に道を歩くなというものだ。

見守りボランティアをしていた人が児童殺害するからといって排除したとしても他の手段で実行される。

むしろ接点を多く持たせることで子供たち自身に危険性を学ばせ、自律思考を身につけることが将来にとっても有益となる。

世界は自分が思っているより広く、自由があることを一人でも多くの人が認識することでいじめから逃げられるようになればいいと思う。

想像力について思うこと

創造的な仕事をしろいう話ではない。

最近の50代の管理職等に顕著に見られる傾向として責任回避主義と新しいことへのチャレンジができないのを見受けられる。

理由はやったことがないからと責任をとりたくないという2点に集約される。

部下にして思えば、管理職は責任を取るのが仕事となっているのに責任を取らない管理職の存在意義について思いを馳せることになる。

また慣習化した仕事を後生大事に守っている既得権益化した仕事もある。

多額の投資をしたシステムであったが時代と業務内容の変更により機能不全になっているにも関わらず、システム変更で場当たり的な対応をする会社の方針。

新しいアプリや考え方を取り入れることに安全性や既存業務との整合性等を理由に拒否するといったこともある。

もちろんなんでも新しいことが素晴らしいとは限らない。

企業は存続することが第一であり、余計なリスクを負って利益第一主義となって潰れることはもっての他である。

とはいえ近年の大企業や政治家の謝罪会見をみていると責任回避主義と私はやったことがないからわからないといった会見を平気でする。

特にセブンペイをめぐる騒動での記者会見はお粗末なものであった。

 

話が飛躍するが、今後の日本経済は少子高齢化と近隣諸国との軋轢によって縮小する傾向となる。

既存大企業でも自動車産業や銀行は人口減少と社会の購買能力の低下によって統廃合は逃れない状況となっている。

スティーブン・バノンが愛読していた『フォース・ターニング 第四の節目』で危機の時代が到来したと喧伝されている。

曰く社会が激動を迎える決定的な時代。古い価値観が新しいものと代わり、社会秩序の変化を推進することになる。

この傾向は2005年から始まったとされ25年~30年程度継続する。

現に最近の傾向として、投資信託を促し資産形成を若いうちからするように喧伝されている。

またかつてバブル時代に流行っていたアルバイトで生涯過ごすという一過性の働き方とは違い、生涯現役でいるためにフリーランスといった自分なりの働き方を推奨する動きもある。

LIFE SIFT(ライフ・シフト)』という100年時代の人生を生きるためには転職をする前提で働こうと提言している。

こういったダイナミックな社会の動きに対して、多くの管理職はついていけてない。

守るべきものが崩れる危機的な時代にあって自分の居場所から離れないのは周囲の環境に対する想像力の欠如がなせる技である。

よくインフラ系や飲食系といった人間社会と密接につながっている仕事はなくならないと言われる。

しかし仕事はなくならないが仕事の内容や会社の存続とは別義であることまで想像している人は少ない。

技術革新や新しい考えによって今までとは違う形で携わることに対して無防備である。

とくに建築業界の人手不足の原因の一つに業界の慣習によって変化を嫌ったこともある。

旧タイプの職人が幅を利かせることで新しい人材が枯渇し職人の平均年齢が上がっている。

また技術革新や家を持ってくるという発想の転換により、住宅はプレハブ方式によって工場で組み立てて持ってくる時代になった。

比較的ゆっくり変化するはずの建築業界でも急激な変化を迫られている。

他の業界はより変化の激しい時代となるだろう。

 

フリーランスだろうが、社会人だろうが管理職だろうが働いているすべての人に必要なことは想像力を働かせることにある。

想像力は将来どんなことが起きるかを予測し、リスクと危機管理を養うことになる。

最悪なのは突然足元が崩れることにある。

高収益でも早期退職をおこなっているキリンHDの例のように順調に業績が右肩上がりでも退職となる。

企業の年齢は40年とされている。

一方社会人は生涯現役となり、50年~60年働く時代となる。

いつまでも同じ仕事ができることはない。

また想像力を働かせて仕事に取り組んでいない人は受動的になる。

能動的に働いている人との差は数年間で広がってしまう。

40代50代になって使えないやつという烙印を押されたら単純労働以外の使いみちがなくなってしまう。

正社員の首がきりにくいのは法に守られているからにすぎない。

法改正となれば企業は容赦なくリストラを敢行することになる。

また社員も使えないやつをリストラすることに賛同するだろう。

危機に対して過剰に反応する必要はないが、想像力をもって日々生活することは自分自身の成長と家族を守ることになると思う。